「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」22 アンドレイ公爵⑫

 ボロジノの会戦の前日、アンドレイは翌日の戦闘に対する命令の受領も済ませ、夕暮れにはもう何もすることがなかった。

「明日の戦闘が彼のこれまで参加したすべての戦闘のなかでもっとも恐ろしいものになるはずであることが、彼にはわかっていた、そして生まれてはじめて、自分は死ぬかもしれぬという考えが、現世とは何のかかわりもなく、それが他の人々にどのような影響をあたえるかなどという考慮はいっさいなく、ただ自分自身に、自分の魂にかかわるものとして、まざまざと、ほとんどまちがいのないものとして、飾らぬ恐ろしい姿で、彼の脳裏にあらわれた。」

 そのような精神状態の中で、アンドレイはこれまでの自分を振り返る。

「この心象の高みから見れば、これまで彼を苦しめ、彼の心を塗りつぶしていたものがすべて、ふいに冷たい白い光におおわれて、陰影も、遠近も、輪郭もないものになってしまった。これまでの全生活が、人口の照明をあてて、レンズを透してながめてきた幻燈のように、彼には思われた。そしていま彼はふいに、レンズを取り去って、明るい日光の下で、それらのうすぎたない着色をほどこされた絵を見たのだった。『そうか、そうだったのか、こんなものがおれの胸を騒がせたり、感激させたり、苦しめたりしていた虚像だったのか』と彼は想像の中で自分の人生の幻燈のおもな絵をめくり、この冷たい白い日の光――死についての明白な観念に照らしてそれらを眺めながら、ひとりごとを言った。『美の極致のように、神秘的な何ものかのように思われたものが、こんな粗雑にごてごてと色を塗られた絵にすぎなかったのか。名誉、社会の福祉、清らかな恋愛、祖国――これらの絵が、おれにはどれほど崇高なものに思われたことか、どれほどの深遠な意義に満たされていると思われたことか!ところがこんなものはどれもこれも、おれのために昇るような気がするあの朝日の、冷たい白い光の下で見れば、何の変哲もない、色あせた粗雑なものにすぎんのだ』」

 自分を裏切ったと思ってきたナターシャのことも別の様相を呈してくる。

「『・・・あの少女、神秘的な魅力にみちあふれているかにおれには思われた、あの少女。どれほどおれはあの少女を愛していたことか!愛の生活と、彼女との幸福について、おれは詩のような計画をつくっていたのだった。おお、愛すべき少年よ!』彼は毒をふくめて声に出して言った。『ばからしい!おれは理想的な愛とやらを信じて、おれのいない1年のあいだ彼女の貞節がまもられなければならぬものと思っていたのだ!お伽噺のやさしい小鳩みたいに、おれとの別離のさびしさに、彼女はやつれてしまうはずだったのだ。ところがどうして、事実はずっと簡単だった・・・・そんなものはみなおそろしく簡単で、醜悪なものさ!』」

 そして、ボロジノの会戦。アンドレイから二歩ばかりのところに一発の榴弾が落下した。「伏せろ!」と地面に姿勢を低くした副官の声が叫んだ。しかしアンドレイは、意を決しかねて立っていた。そして、煙をひきながら独楽のようにくるくるまわっている榴弾を眺めていた。

「『ほんとうにこれが死なのだろうか?・・・おれは死ねない、死にたくない、おれは生命を愛する、この草を、大地を、空気を・・・愛する・・・』彼はこう思った、そして同時に、みんなに見られていることを考えた。『恥ずかしいぞ、士官たるものが!』」

 榴弾が爆発し、アンドレイはわきのほうへふっとばされた。右わき腹からはどくどくと血が流れ出て草を染めた。包帯所に運ばれたアンドレイは、意識が回復して考える。

「『あの世には何があるのだろう、そしてこの世には何があったのか?どうしておれはこの生活と別れるのが惜しかったのか?この生活には、おれのわからなかったものが、いまもわかっていないものが、何かあった』」

 天幕内に運ばれアンドレイは台の上に横たえられた。隣の台には、手術で片足を切断され、女のように泣き叫んでいる弱りはてた哀れな男がいた。それはナターシャを誘惑した宿敵アナトーリ・クラーギンだった。

BBC「戦争と平和」ボロジノの戦い

BBC「戦争と平和」ボロジノの戦い アンドレイ公爵

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