「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」23 アンドレイ公爵⑬

 アンドレイは、隣の台で苦しそうにもだえ泣いている男がアナトーリと知って、彼と自分が何かによって緊密に結びつけられていると感じる。そして、彼と自分の結びつきが何かを考える中で、思いがけない思い出がよみがえる。

「彼は、1810年の舞踏会で初めて見た、あの首も腕も細い、いまにも有頂天になりそうな、びくびくした、幸福そうな顔をしたナターシャの姿を思い出した、すると彼女に対する愛とやさしい思いやりが、これまでのいつよりも生き生きと、強く、彼の心の中に目覚めた。彼は、ようやく、泣き腫らした目にいっぱい涙をためて、ぼんやりこちらを見ているこの男と、自分との間にあったあの関係を思い出した。アンドレイ公爵はすべてを思い出した、するとこの男に対する胸底から突き上げてくるようなあわれみと愛が、彼の幸福な心を満たした。」

 アンドレイのアナトーリに対する思いのこの激変は自分には実感として理解できない。ナターシャとの関係を壊した敵であり、決闘しようと追い続けていた人物に突然「憐れみと愛」を感じるというのだ。トルストイはこう続ける。

「アンドレイ公爵はもうこらえきれなくなって、人々に、自分に、そして人々と自分の迷いに、やさしい愛の涙を注ぎながら、しずかに泣き出した。

『あわれみ、兄弟たちや愛する者たちに対する愛、われわれを憎むものに対する愛、敵に対する愛――そうだ、これは地上に神が説いた愛だ。妹のマリヤに教えられたが、理解できなかったあの愛だ。これがわからなかったから、おれは生命が惜しかったのだ。これこそ、おれが生きていられたら、まだおれの中に残されていたはずなのだが、いまはもうおそい。おれにはそれがわかっている!』」

 その後、アンドレイはしばらく昏睡状態にあった。意識が戻ったアンドレイに、憎むべきアナトーリの苦しみを見て頭に浮かんだ「愛」、自分に幸福を約束するあの新しい考えが鮮明によみがえる。

「『そうだ、おれの前には人間から奪い取ることのできぬ新しい幸福が開かれたのだ・・・そうだ、愛だ・・・それは、何かの代償に、何かのために、あるいは何かの理由で愛するような、そういう愛ではない。・・・親しい人間を愛することは人間の愛でできるが、しかし敵を愛することは神の愛をもってしかできぬ。・・・人間の愛で愛していれば、愛から憎悪に移ることがある。だが、神の愛が変わることはありえない。』」

 そして、ナターシャのことが浮かぶ。

「『・・・おれはこれまでの生涯にどれだけ多くの人々を憎んできたことか。しかしおれがだれよりも強く愛し、だれよりも強く憎んだのは、彼女だった』そして彼はありありとナターシャを思い浮かべた。しかし彼は、これまでのように、自分に喜びを与えるあの美しい魅力だけをもつ彼女の姿を思い描いたのではなかった。いまはじめて、彼は彼女の心を自分の心に思い浮かべたのである。すると彼には、彼女の感情も、苦悩も、羞恥も、悔恨も理解された。彼はいまはじめて自分の拒絶の残酷さのすべてを理解し、彼女を破談にしたことの残酷さを知った。『ああ、もう一度だけ彼女に会うことができたら。一度でいい、あの目を見つめながら、言ってやることができたら・・・』」

 この直後、アンドレイが寝ている部屋に一人の女性が入ってきた。幻覚かと思い意識を失ってしまうが、ふっと我に返ったアンドレイの前にいたのはナターシャだった。

「・・・ナターシャが、いま啓示を受けたその新しい清らかな神の愛で、世界じゅうのだれよりも強く愛したいと彼が望んでいた、その生きたナターシャが、彼の前にひざまずいていた。それが生きているほんとうのナターシャであることを、彼はさとった。・・・アンドレイ公爵はほっと溜息をつくと、しずかに微笑して、手を差し伸べた。「あなたでしたか?」と彼は言った。「なんという幸福だろう!」」

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