「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」16 アンドレイ公爵⑨

 あれほどアンドレイの帰りを待ちわびていたナターシャがアナトーリ・クラーギンに恋してしまったのだ。たしかに、彼は「モスクワじゅうのご婦人がすっかり血迷わされてしまいましたよ」と言われるような「驚くほど美貌の副官」。オペラ劇場でナターシャを見かけたアナトーリは彼女に夢中になる。幕間のあいだも彼女のいるボックス席ばかり眺めていた。ナターシャはそれをどう受け止めたか。

「ナターシャは、彼が自分のことを話していることを知っていた。そしてそれが彼女の自尊心に満足を与えた。彼女はわざと顔の向きを変えて、自分ではその角度からがもっとも美しいとうぬぼれている横顔を彼に見せるようにした。」

 ナターシャは、アナトーリがすっかり自分のとりこになっていることに、胸をわくわくさせる。第三幕が終わるとアナトーリはナターシャのボックスにあらわれる。彼の言葉にみだらな意図を感じつつも魅かれていくナターシャ。

「彼の自信と、その微笑の善良そうなやさしさに、彼女は負けた。彼女は、彼につりこまれて、じっと彼の目を見つめたまま、やさしく微笑した。」

 アナトーリは彼の多額の浪費、借金に愛想をつかした父親によってペテルブルグを甥は和割れモスクワに来ていた。彼は2年前にすでに結婚していた。しかし、ナターシャのとりこになった彼は、あらゆる手段を使って彼女を射止めると決意する。いったいアナトーリとはどんな人物か。

「アナトーリはつねに自分の立場にも、自分にも、他の人々にも、満足していた。彼は、これまで生きてきた以外の生活はできなかったし、これまでの生活で一度も悪いことをしたことがないと、本能的に、自分の心身のすべてで確信していた。・・・他人にどう思われようと、彼にはまったくどうでもよかった。・・・彼が好んでいたただひとつのもの、――それは遊興と女だった。・・・彼は心の中で自分を非のうちどころのない人間と考え、卑怯者や腹黒い連中を心底から軽蔑し、良心にすこしも恥じることなく昂然と頭をそびやかしていた。」

 ナターシャがアンドレイを忘れてしまったわけではない。

「自分は悪いことをしたのではないか、アンドレイ公爵に対する自分の貞節はすでに失われてしまったのではないか、という疑問が彼女のまえにわいてきて、彼女は改めて自分を責めて、自分の心に不可解な恐ろしい感情を起こさせたあの男のひとつひとつの言葉、ひとつひとつの動作、顔にあらわれたひとつひとつの表情の動きを、ごくこまかいところまでもらさずに思い出してみた。」

 アナトーリの姉エレン(ピエールの妻)の夜会で、アナトーリの行動はさらにエスカレート。ワルツを踊りながら、ナターシャの胴にまわした手に力を入れ、手を握りしめ、あなたはじつに魅力的だ、ぼくはあなたを愛しています、とささやく。そして小さなソファ室で二人きりになった時、「ぼくは気が狂うほどあなたを愛しています。」と言って、その熱い唇を彼女の唇に押し付けた。

 家に帰っても、彼女は一晩中眠られない。

「自分はどちらを愛しているのか、アナトーリか、それともアンドレイ公爵をか、という解くことのできぬ疑問が彼女を苦しめた。」

 翌日、彼女の気持ちを決定づける手紙がアナトーリ(ドーロホフが代筆)から送られてくる。

「『きのうの夜からぼくの運命は決まりました。あなたに愛されるか、死ぬかです。ぼくにはほかの道はありません』という書き出しで手紙ははじまっていた。・・・ぼくを愛してくれるなら、イエスと一言言ってくれさえすればよい、そうしたらいかなる人力も二人の幸福をさまたげることはできない、愛はすべてに勝つ、ぼくはあなたをさらって、ちのはてへつれてゆくつもりだ、などと書いていた。」

 ナターシャは思う。「そうよ、そうよ、あたしは彼を愛しているんだわ!」

BBC「戦争と平和」アナトールに誘惑されるナターシャ

BBC「戦争と平和」アナトールと踊るナターシャ

BBC「戦争と平和」アナトールとドーロホフ

BBC「戦争と平和」オペラ劇場ボックス席のナターシャ

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