「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」15 アンドレイ公爵⑧

 ナターシャへの想いをアンドレイはピエールに打ち明ける。ピエールもナターシャのことを愛していたのだが。

「アンドレイ公爵は、ふたたび人生の春を迎えたような、喜びに輝く晴れやかな顔をして、ピエールのまえに立ち止まると、相手の暗い表情に気づかずに、幸福のエゴイズムをむきだしにしてにっこり笑いかけた。

『なにね、きみ』と彼は言った。『昨日きみに言おうと思ったんだが、じつはそのことでいま来たんだよ。かつて一度も味わったことのない気持ちさ。ぼくは恋をしたんだよ、きみ。・・・まったく信じられない思いだが、この感情のほうがぼくより強いのだ。昨夜ぼくは悩んだよ、苦しみぬいたよ、だがこの苦しみをぼくは世の何ものにもかえたくない。これまでのぼくは生命のないぬけがらだった。いまはじめて生命を得たのだよ、・・・』

 アンドレイ公爵はまったく別な人間に生まれ変わったように見えたし、また新しい人間になっていた。あの深い憂愁は、あの人生に対する蔑視は、あの絶望は、どこへ消えてしまったのか?・・・

『僕がこれほど愛することができるなんて、だれに言われても、僕は信じなかったろうな。・・・これは以前ぼくの中にあった感情とは、まったくちがうんだよ。ぼくにとって、全世界が真っ二つにわけられてしまったんだ。片方の半分には――彼女がいる、そしてすべての幸福と、希望と、光がある。別な半分には――彼女がいない、そしてそこにあるすべては、沈黙と闇ばかりだ・・・・・」

 アンドレイはナターシャとの結婚を決意する。しかし大きな障害がある。父の承諾だ。この結婚を望まない老父は条件付きで結婚を認める。その条件とは、1年間外国で療養し、お互いの愛情が変わらなければ結婚を承諾するというもの。アンドレイは父の遺志に従う。

 結婚の申し込みを知り、幸せのあまりわっと泣き出してしまったナターシャは、直後に結婚が1年先に延ばされたことを知る。

「『それは恐ろしいことですわ!いやですわ、そんな、恐ろしいこと!』と口走ると、ナターシャはまたふいに泣き出した。『1年も待ってたら、死んじまうわ。そんなことできないわ、そんな恐ろしいこと』彼女は未来の夫の顔をじっと見つめた。するとそこに同情と苦慮の表情を見た。

『ちがうのよ、嘘よ、おっしゃるとおりにするわ』と彼女は急に涙をとめて、言った。

『あたしこんなに幸福ですもの!』」

 アンドレイが旅立って2週間ほどすると、ナターシャは、まわりの者たちがびっくりしたほど、別離の悲しみから立ち直って、もとどおりの明るい娘になる。彼女は婚約者を心から愛しきっていて、この愛にすっかり心を安め、あいかわらず生活のあらゆる喜びを敏感に感じ取っていた。しかしやがて彼女に変化があらわれる。

「しかし4か月目の終わりころになると、彼との別離が、あらがうことのできぬ愁いの影をときおり彼女の心におとすようになった。彼女には自分がかわいそうに思われた。こんなに愛することも、愛されることもできる自分を感じながら、こんなに長い月日を、だれのためでもなく、むなしく朽ちらせている自分が、かわいそうでならなくなった。」

 彼から送られてくる手紙も、喜ばしいものには感じられなくなる。

「別離の最初の時期を気軽に、快活にたえていたナターシャも、いまは日ごとに不安が強まり、怒りっぽくなっていった。彼に対する愛にささげたいこの人生のもっともはなやかな時代が、だれのためでもなく、むなしく朽ちてゆくという考えが、執拗に彼女を苦しめた。彼の手がもはむしろ彼女を怒らせるほうが多かった。彼女がただ彼の思い出だけに生きているのに、彼はほんとうの生活をして、興味ある新しい土地を見たり、新しい人々に会ったりしていると思うと、彼女は自分が侮辱されているような気がするのだった。」

 こんな彼女の運命を大きく変えてしまうできごとがアンドレイとの再会もあと数か月という日に起きる。

BBC「戦争と平和」ピエール、ナターシャ、アンドレイ

BBC「戦争と平和」アンドレイの父ボルゴンスキイ公爵

BBC「戦争と平和」ナターシャ、アンドレイ

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