「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」14 アンドレイ公爵⑦

 ロストフ邸の庭の並木道を馬車に揺られて、玄関に近づいていくアンドレイは、木々のあいだから明るい叫び声をあげながら馬車の行く手を先を争って足りぬけてゆく娘たちの群れを目にする。先頭を切って馬車の方へ駆け寄ってきたのがナターシャ。彼女は、見知らぬ男と知ると、アンドレイをろくに見もせずに高らかな笑い声を残して走り去る。

「アンドレイ公爵はふいになぜか胸が痛くなった。こんなに美しく晴れ渡った日で、陽光はまぶしいばかりにふりそそぎ、まわりじゅうが楽しさにみちあふれていた。だが、このほっそりした美しい少女は、彼という人間のいることを知らないし、知ろうともしないで、自分だけの――おそらく愚かしいものに違いないが、――楽しい幸福な生活に満足しきって、いかにも幸せそうだった。『あの少女は何をあんなに喜んでるのだろう?何を考えているのだろう?・・・そしてなぜ幸福なのだろう?』と思わずアンドレイ公爵は好奇心をうごかして自分にたずねてみた。」

 ロストフ伯爵(ナターシャの父)から引き留められ、宿泊することになったアンドレイは寝つかれず、窓を開け放つ。そして、満月のかかった明るい春の夜空を見つめていた。すると、アンドレイの部屋の上の階の部屋から女の話し声が聞こえてきた。従姉妹のソーニャに語りかけるナターシャの声だった。

「『ソーニャ!ソーニャ!・・・まあ、どうして寝てられるのかしら!ねえ、ごらんよ、すてきだわ!ああ、なんてすてきなのかしら!ねえ、起きなさいったら、ソーニャ』と彼女はほとんど涙声で言った。『だってこんなすばらしい夜は、一度だってなかったわよ、ぜったいに、ほんとよ・・・だめよ、ごらんよ、きれいなお月さま!・・・・ああ、なんてすばらしいのかしら!いらっしゃいよ。ねえ、おねがい、いい子だから、ちょっと来てよ。そら、ね!こうしてしゃがんで、ね、ほら、こう膝を抱いて、低く、できるだけ低くちぢまるのよ、――そしてぱっと飛んでみたいわ。こんなふうに!』」

 彼女の話し声に耳を澄ませていたアンドレイにある感情がわき上がる。

「『またしてもあの娘か!それも、まるでわざとみたいに!』と彼は思った。ふいに、彼の全生活と矛盾する、若々しい思いと希望のあまりにも思いがけぬ混乱が、心の中にわき上がった。それで彼は、自分の心の中をとても見すかすことができないことを感じながら、すぐに眠りに落ちた。」

 これだけである。しかし、このナターシャとの出会いがアンドレイに樫の老木の見方を変えさせ、再び人生に積極的に参加させることになったのだ。ペテルブルグに出たアンドレイは軍規制定委員会の委員と法律制定委員会の分科主任に起用された。そして、1809年12月31日がやってくる。各国の外交団や皇帝も出席するある舞踏会が催され、ナターシャ、アンドレイも出席する。ナターシャにとっては生まれて初めての大きな舞踏会。誰からも踊りを誘われず落ち込んでいたナターシャに、ピエールからすすめられてアンドレイがワルツを一曲申し込む。

「彼がこの細い、敏捷な胴を擁し、彼女が彼のこんなに近くで身を動かし、こんなに近くから彼にほほえみかけると、とたんに彼女の魅力の美酒が彼の頭を強くうった。彼は息を次ぐために彼女をとめ、立ち止まって、踊っている人々を眺めたとき、自分が生き生きと若返ったような気がした。」

 数日後、アンドレイはロストフ家を訪問する。そして改めて、「ナターシャの中に彼にとってまったく異質な独特の世界、彼の知らぬある種の喜びにみちあふれた世界があること」を感じる。そして帰宅してからもナターシャのことを思って寝付かれない。

「心の中が新鮮な喜びにみたされて、まるで息苦しい部屋からひろびろした自由な世界へ出たような気持だった。・・・ただ心の中に彼女を思い描いただけで、そうすると彼の全生活が新しい光の中に見えてくるのだった。『人生が、そのすべての喜びを持った全人生が、おれのまえに開かれたのに、おれはこのせまい閉ざされた枠に中で、何のためにもがいているのだ、何のためにあくせくしているのだ?』と彼は自分に語りかけた。・・・『幸福になるためには、幸福の可能を信じなければならぬ、とピエールは言ったが、そのとおりだ。おれはいまそれを信じている。死者を葬るのは死者にまかせよう、そして生きているあいだは、生きて、幸福になることだ』と彼は考えるのだった。」

BBC「戦争と平和」舞踏会でのアンドレイとナターシャ

BBC「戦争と平和」 舞踏会で誰からも誘われないでいらいらするナターシャ

BBC「戦争と平和」舞踏会でのアンドレイとナターシャ

BBC「戦争と平和」舞踏会でのアンドレイとナターシャ

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