「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」13 アンドレイ公爵⑥

 アンドレイの変化を明瞭に示す出来事がある。「樫の木」の話だ。彼は、1809年の春、息子のリャザンの領地へ出かけるが、行きと帰りにこの樫の木を見る。その見方がまるで異なるのだ。まず行きに見たときの印象。

「道はずれに一本の樫の木が立っていた。おそらく、林をなしていた白樺より十倍は年を重ねていることだろう、その樫の木はどの白樺より十倍も太く、二倍は高かった。これは幹のまわり二かかえもある樫の巨木で、いつの昔かに折れたらしい古枝をところどころに下げ、樹皮ははげおちて一面に古いかさぶたにおおわれていた。無骨な節瘤だらけの巨大な手や指をばらばらに張りひろげて、この樫の木は、にこやかな白樺の木々の間に、怒りっぽいつむじまがりの醜い老人のように立っていた。この老木だけが春の魅惑に屈しようとせず、春にも、太陽にも、目を向けようとしなかった。

『春だの、愛だの、幸福だのと!』この樫の木はこう語っているようであった。『おまえたちはいつも同じらちもないたわけた嘘ばかりつきくさって、よくもあきないものだ。どれも同じことさ、みんな嘘っぱちだよ!春も、太陽も、幸福も、そんなものはありゃしないのさ。あれを見ろ、おしつぶされて死んだみたいになった樅が何本か、いつも同じ格好で、はいつくばっていようが。このわしにしたって、折られて、皮をむしりとられた指を、背中から、脇腹から、どこから生えようが、そのまま張りひろげているのだ。生えたなりに――突っ立っているのさ、おまえたちの希望だの、嘘だの、そんなものは信じやしないよ』

 アンドレイ公爵は林の中を通りながら、まるで何事かを期待するように、何度かこの樫の木を振向いた。草花や青草はこの樫の木の根方にもあった、しかしこの巨木はあいかわらず、しかめ面をして、醜く、かたくなに、それらを踏まえてどっしりと立っていた。

『そうだ、あれが正しい、あの樫の木のほうが千倍も正しいのだ』とアンドレイ公爵は思った、『他の若い連中は、何度でもこの欺瞞に乗るがいいさ、だがわれわれは人生を知っている、―――我々の人生は終わったのだ!』この樫の木にからんで、絶望的な、しかし快くほろ苦い新たな考えの連鎖が、アンドレイ公爵の心に生まれた。この旅のあいだに、彼はまたぞろ自分の全人生を考察し、何も新しくはじめることはない、ただ悪をおこなわず、心を騒がさず、何も望まずに、残された生涯をしずかに終えるべきなのだという、以前の、あの安らかな諦観の心境にもどったかのようであった。」

 この時から1か月半後の6月初めに、アンドレイは家に戻る。その途中、彼は節くれだった樫の老木が異様な忘れえぬ感銘を彼の胸に与えた白樺林に再び馬車を乗り入れる。

「樫の老木は、すっかり変貌して、艶やかな濃い緑を天幕のように張りひろげ、夕日を浴びてかすかに葉末をそよがせながら、うっとりとなごやいでいた。ごつごつした指も、かさぶたも、老いの不信も、悲哀も――あとかたもなかった。百年を経た硬い樹皮のしわのあいだから、この老木の生命力が生み出したとは信じられないようなみずみずしい若葉が、小枝もなく、じかに萌え出ていた。『そうだ、これがあの樫の木だ』とアンドレイ公爵は思った。するとふいに理由もなく、喜びと更生を告げる春の声が彼の心を目ざめさせた。彼の人生のすべてのよき瞬間が一時に彼の思い出に甦った。」

 そして旅から戻ると、アンドレイは村の生活に退屈を感じるようになる。人生に積極的に参加し、自分の人生経験を実地に活用しなければいけない、と考えるようになる。亡くなったリーザの肖像を見ても、感じ方がまるで変わる。

「ギリシャ風に髪をふくらましたリーザが、金の額縁の中からやさしく楽しげに彼を見守っていた。彼女はもう以前の恐ろしい言葉を語りかけずに、無邪気に、明るい興味ありげな目で彼を見つめていた。」

 アンドレイを変えたものは何か?彼は、リャザンの領地の後見事務のことで、5月の中頃、軍の貴族会長ロストフ伯爵と会うためその屋敷を訪ねる。そこで幸福の権化のような少女と出会う。ナターシャである。

BBC「戦争と平和」ナターシャ

BBC「戦争と平和」ナターシャ

BBC「戦争と平和」ナターシャ  社交界デビュー

イリヤ・レーピン「トルストイ 1901年」ロシア美術館

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