「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」12 アンドレイ公爵⑤

 アンドレイは妻の死以来「すっかり変わってしまった」自分の現在の生き方についての考えをこう述べる。

「〈ぼくがこの世に知っている現実の不幸は二つだけだ。良心の呵責と病気。だからこの二つの悪さえなければ、それが幸福なのだ〉。この二つの悪だけをさけながら、自分のために生きる、これが目下のところぼくの叡智のすべてさ」

 ピエールも、アンドレイと離れていた2年間の間に大きく変わっていた。夫婦関係の破綻の悩みからフリーメーソンに入会し、その思想を実践するため自分の領地で農民たちの生活改善に取り組んできた。彼はアンドレイに反論する。

「では隣人愛は?自己犠牲は?・・・後悔しないために、悪をおこなわぬようにだけ心がけて生活する、それだけでは足りませんよ。ぼくはそういう生活をしたんです、自分のために生活したんです、そして自分を滅ぼしてしまったんです。そしていま、他人のために生きてみて、いやすくなくともそう生きる努力をしてみて・・・はじめてぼくは、人生のすべての幸福をさとったのです。」

 皮肉な薄笑いを浮かべて聞いていたアンドレイは言う。

「しかし、人それぞれの生き方があるさ。きみは自分のために生きて、そのために危うく自分の生活を滅ぼしかけたと言い、今度他人のために生きるようになって、はじめて幸福を知ったという。ところがぼくが経験したのは、まるで反対のことだ。ぼくは名誉のために生きてきた(だが、そもそも名誉とは何だ?これもまた他人に対する愛ではないか、他人のために何かしてやろう、そして他人の賞讃をえようという願望ではないか)。このようにぼくは他人のために生きてきた、そしてほとんどどころか、完全に、自分の生活を滅ぼしてしまったのさ。そして、自分一人のために生活するようになってからだよ、やっとすこしずつ落着きをとりもどしてきたのは。・・・それ(息子、妹、父親)はみなぼくと同じことさ、他人じゃないよ。・・・ところが他人と言うやつは、きみとかマリヤ(妹)の言葉を借りると隣人と言うやつだがね、これが迷いと悪の大本なのさ。」

 こんなやりとりが続く。父の家に向かう馬車の中でも、渡し舟の上でも。アンドレイが大きな刺激を受けたのはピエールがこう語った後だ。

「神があり、来世があるなら、真理があり、善徳があるわけです。そして人間の至高の幸福は、それらのものの達成を目指して努力するところに存するのです。生きなければなりません、愛さなければなりません、いまこの大地のちっぽけな一部分にのみ生きているのではなく、永遠にあの全宇宙の中に(彼は大空を指さした)、過去も生きてきたし、未来も生き続けるのだということを、信じなければなりません」

 渡し舟からおりながら、アンドレイはピエールが指さした大空を見上げる。

「アウステルリッツ以来はじめて、彼はあの高い、永遠の空を見た。それは彼がアウステルリッツの戦場に横たわりながら見た、あの空だった。すると彼の内部にあって、もういつからか眠っていた、よりよい何ものかが、ふいに喜ばしげに、若々しく、彼の心の中に目をさました。この感情は、アンドレイ公爵がまた日常の習慣的な生活条件の中に入ると、まもなく消え去ったが、しかし彼は、育てるすべを知らなかったこの感情が、やはり彼の内部に生きていたことを知ったのだった。ピエールと会ったことは、アンドレイ公爵にとって、たとい外面的にはそれまでと変わりなくても、内部の世界で彼の新しい生活がはじまる大きなエポックとなったのである。」

 アンドレイは村にこもったきりの生活を2年間過ごす。領地改革の事業に取り組むとともに、たくさんの本を取り寄せ、情勢の推移を研究。さらに、最近の二つの敗戦の批判的分析と、わが軍の作戦要務令と軍規の改革試案の作成という仕事にもとりかかる。そして、1809年の春、彼が後見人になっている息子のリャザンの領地に出かける。

BBC「戦争と平和」ピエールと語り合うアンドレイ

BBC「戦争と平和」ピエールとアンドレイ

BBC「戦争と平和」フリーメーソンを訪れるピエール

イリヤ・レーピン「トルストイ」トレチャコフ美術館

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