「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」10 ティルジット条約以後③
1807年のティルジット条約締結以来、フランスとロシアは辛うじて平和を保っていたが、それも長くは続かなかった。なぜか。ティルジット条約にはロシアが狙うトルコ処理についての秘密協定が織り込まれていた。フランスがトルコとロシアの調停にあたり、「トルコが調停に応じなければ、フランスはオスマン人に対してロシアと共同戦線をはり、条約の両締結国はコンスタンティノープルをのぞきオスマン・トルコ帝国のヨーロッパにある諸州をトルコ人のくびきと抑圧から守るために心をあわせる」ことが決定されていた。つまり、フランスが、ロシアとオスマン帝国の対立を、ロシア側に有利に調停するという約束がなされていたが、それをフランスが実行に移さず、ナポレオンはオスマン帝国とも親交を結んでいた。またロシアは、ナポレオンがポーランドにワルシャワ大公国を創設したことにも不満だった。独立を失っていたポーランドが国家として再建されることになれば、ロシアにとって大きな脅威となるからである。
さらに、大陸封鎖によってロシア経済は危機に瀕していた。そこでロシア皇帝アレクサンドル1世はイギリスとの密貿易を黙認したばかりか、フランス製品に高率の関税を課してフランスの経済支配を脱しようとした。そのうえナポレオンとオーストリア皇女マリー・ルイーズの結婚(1810年4月1日)が、フランスとロシアの関係をさらに悪化させた(ジョゼフィーヌとの離婚後、誰を新皇后にするかは、オーストリアのフランツ1世の娘マリー・ルイーズとロシアのアレクサンドル1世の妹アンナ大公女の間で争いがあった。アレクサンドル1世はアンナ大公女を嫁がせるのと引き換えに、ポーランド王国の再建をしない約束に調印するようにナポレオンに迫っていた)。こうしてまさに両国は、一触即発の状況にあった。
そのようなとき、ドイツ北部のオルデンブルク公国がフランスに併合。公国は戦略上ロシアの急所というだけでなく、オルデンブルク大公はアレクサンドル1世の義弟であったため、ロシアはこの併合に激怒。その直後アレクサンドル1世は、フランスの特産品である絹織物やブドウ酒に対して関税の引き上げを行った。ナポレオンがロシアとの戦争を頻繁に口にするようになったのはこれ以後のことである。
ロシアはフランスとの戦いの準備を進める。まずオーストリアとプロイセンの動向を密かに探ると、両国は準備不足のためフランスと同盟を結んでいたが、フランスには最小限の兵力しか提供しないことがわかる。続いてロシアは、スウェーデンから中立の約束を取り付けることにも成功する。さらにオスマン帝国とも条約を結ぶ。
もちろん、ナポレオンもこうしたロシアの動きを黙ってみていたわけではない。1811年と1812年の財政予算を大幅に増額。そのうち歳出は戦争省と海軍省の予算だけで60%にも達し、戦争予算の性格を強めて戦争の企図を内外に示した。しかし国民は戦争を歓迎していたわけではない。
「国民はすでにスペイン戦争に疲れ、途方もない企ての危険んに際限なく身をさらすことに不平を言い始めていた」(大蔵大臣モリアン)
とりわけブルジョアジーの間では、1811年の経済恐慌をきっかけにして、ナポレオンへの不信感が広まっていた。1812年3月、ノルマンディ―地方の大都市カーンで起こった大規模な食糧暴動は政府に衝撃を与えた。ナポレオンは出兵を急いだ。ヨーロッパの各国から兵を集めて最強最大の軍隊を編成した。この時の大陸軍は、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダ、オーストリア、プロイセンなどの外人部隊も招集されており、「20カ国軍」とも呼ばれている。2月24日プロイセンと、3月14日オーストリアと軍事同盟条約締結。これで戦争準備は終わった。1812年4月八日、ロシア皇帝がフランス軍のプロイセンからの撤退を求めて最後通牒を突きつけると、ナポレオンは約50万の兵力をポーランドに集結させる。ナポレオンは5月29日、ドレスデンを発ち、ワルシャワ大公国、プロイセン王国を通過し、6月22日ロシア領を対岸に望むニーメン河に到着した。
ポリーヌ・オズ「1810年3月28日にコンピエーニュに到着したマリー=ルイーズ皇后」ヴェルサイユ宮殿
ロベール・ルフェーブル「皇后マリー・ルイーズ」グラウコ・ロンバルディア美術館
フランソワ・ジェラール「皇后ジョゼフィーヌ」フォンテーヌブロー美術館
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