「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」9 ティルジット条約以後②

 強国プロイセンを屈服させ、ティルジット条約を締結して、1807年7月、1年10か月ぶりにナポレオンは帰国。パリでは、皇帝の帰還を祝して、式典や祝典が盛大に催された。今や、宮廷でも、議会でも、ナポレオンのカリスマ的支配がいき渡った。8月16日、皇帝は立法院で演説し、プロイセン遠征の成果を報告した。

「今度の戦争、そして勝利、講和条約はヨーロッパ政治の様相を一変した。私の行ったことは、すべて私の栄光よりも大切な私の人民の幸福だけを考えて行ったことである」

 しかし、翌1808年、自信に満ちたナポレオンの威信を傷つける出来事が相次いで起こる。発端はスペイン侵略。王位は首尾よく簒奪したものの、スペイン国民の執拗な反抗は全く予期せぬことだった。そして7月、バイレーンでの敗北、そして降伏。これは上昇を誇った大陸軍にとって初の敗北であり、ナポレオンにとって屈辱的出来事であった。その報に接したナポレオンは、その時たまたま手にしていた陶器の洗面器を床にたたきつけるなり、ひたいに青筋を立ててどなったという。

「フランス軍ともあろうものが平地戦で降伏するとは!なんたるざまだ!兵はひとり残らず殺してもらうべきだった。敗れてもみな殺しにあっても、償うことはできる。兵はまた補充できる。しかし降伏によって失った名誉は、二度と取り返せないのだ!フランスが必要とするのは、名誉であって兵員ではない。」

 バイレーンにおけるデュポン将軍の敗北に続き、ポルトガルの南西部の都市シントラでも、ジュノ将軍率いるフランス軍がイギリス軍に降伏。そこでナポレオン自らが2万の軍勢を引き連れてスペインに進軍する。

ナポレオンはスペイン出征にあたり、フランスの安全を確保するため、ロシア皇帝アレクサンドル1世とドイツのエルフルトで協定を結ぶ。ナポレオンは、この協定によって、オーストリアがフランスに戦争を仕掛けた場合、ロシアは背後からオーストリアに軍事行動を起こすことを期待していた。しかし、協定を策定したタレーランに裏切られる。フランスとロシアの攻守同盟は、ヨーロッパを取り返しのつかない混乱に陥れると考えたタレーランは、駐露大使コーランクールや駐仏オーストリア大使メッテルニヒと連携して、アレクサンドルが攻守同盟にサインするのを阻止した。

 1808年11月、ナポレオンはマドリードに入城。イギリス軍をイベリア半島北西端にあるラ・コルーニャに追い詰め、本土に撤退させた。しかし今度はオーストリアで反仏運動が開始される。第5次対仏大同盟の結成を恐れたナポレオンは、1809年1月、急遽帰国。4月、オーストリアとの戦争が再開される。フランス軍はドナウ川を渡ったのち、エスリンクで勝利をおさめるが、フランス軍には以前のような勢いはなく、両軍に多数の死傷者をもたらす悲惨な結果に終わった。

「両軍は死闘を演じた。焼失した家のなかで戦い、道を塞いで積み重なった死体を防御にして戦った」(中隊長マルボー)

 そして、7月5日、6日、ワグラムの会戦。ナポレオンは 18万人の兵士と 488門の大砲を備え,13万 6000人の兵士と 414門の大砲をもつオーストリア軍と対し,2日後にオーストリア軍は退却。この戦いがナポレオンにとって最後の決定的勝利となるが、ナポレオン軍も3万 4000人の兵士を失った。フランス軍の疲弊は限界に達していたため、ナポレオンはオーストリアと和平交渉を行い、10月14日にシェーンブルン宮殿で講和条約を締結。それはオーストリアにとって屈辱的なもので、広大な領土と共に、全人口の6分の1に相当する400万人の人口を失い、8,500万フランという莫大な賠償金を課せられた。

 こうしてナポレオンは再びヨーロッパの支配権を得た。しかし、その帝国には崩壊の陰が忍び寄っていた。スペインでは血なまぐさい対立が続いており、ドイツ諸国でも独立運動が激化し始めていた。もちろんイギリスでも、フランス打倒の声が高まっていた。そうした状況の中、ナポレオンの運命も数年の後に、一気に転落の道をたどり始めるのである。

フオーラス・ヴェルネ「ワグラムの戦いのナポレオン」ヴェルサイユ宮殿

アドルフ・ロエン「ヴァグラムの戦いで野営するナポレオン」

ワグラムの戦い

フェルナン・コルモン「エスリンクの戦い」ミュルーズ美術館

ポール= エミール・ブティニー「エスリンクの戦いで致命傷を負ったランヌ元帥を見舞うナポレオン」

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