「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」11 アンドレイ公爵④

 「戦争と平和」の記述にそって、アウステルリッツ敗戦以降のアンドレイ公爵の動向を追ってみる。

 アウステルリッツ敗戦の報が伝わると、最初の間モスクワは耳を疑ったようだ。当時のロシア人は相次ぐ勝利にすっかり慣れ切っていたからだ。しばらくすると、すべてが明白となりロシア軍の敗北という前代未聞の異常事態の原因が語られ、アウステルリッツ付近でロシア軍将兵によって発揮された英雄的行為が語られるようになった。アンドレイ公爵についてはどうか。

「ボルコンスキイイについては何も語られなかったが、親しい知人たちは、彼が身重の妻と偏屈者の老父をのこして早死にしたことを惜しんだ。」

 アンドレイの老父は友人のクトゥーゾフから「あなたのご子息は、わたしの目の前で軍旗を握りしめ、連帯の先頭に立って、ご尊父と祖国の名に恥じぬ英雄として倒れました。」との手紙を受け取った。しかし遺体は見つかっていないし、戦死者名簿にも記載がないし、捕虜の中にもいない。しかし戦死したと信じた老公爵は娘マリアに、アンドレイの身重の妻に夫の死を伝えるように言う。マリヤは数日後に訪れるはずの出産が無事に済むまで伝えないように父を説得。

「マリヤは望みをかけていた。彼女は生きているものとして兄のために神に祈って、毎日兄の帰還の知らせを待っていた。」

 そしてアンドレイは妻の出産当日に戻ってきた。妻が横たわるソファに行き、彼女の額に接吻し、それまで一度も口にしたことがない「ぼくの心の妻」と言うアンドレイ。

「『あなたなら助けてくださるものと思っていたのに、だめね、なんにもしてくださらない、あなたもやっぱり!』とその目は言っていた。彼女は夫が来たことに驚かなかった。夫の来たことが、わからなかったのである。」

 部屋から出されたアンドレイ。しばらくして妻の呻き声、叫び声がしずまり、赤ん坊の泣き声が聞こえる。鳴き声のうれしい意味を理解し、子どものように泣き出すアンドレイ。しかし、妻は亡くなった。

「その美しいあどけない顔には、先ほどと同じ表情があった。『わたしはあなたたちみんなを愛して、だれにも悪いことなどしなかったのに、どうしてわたしにこんなひどいことをしたの?』とその美しい、痛々しい死に顔は語っていた。」

 三日後の夫人の葬儀。最後の別れをするために、柩の安置された祭壇へのぼるアンドレイ。

「棺の中には、目を閉じられていたが、やはり同じ表情の顔があった。『ああ、どうしてわたしにこんなひどいことをしたの?』とやはりその顔は語っていた。そしてアンドレイ公爵は、心の中で何かが抜け落ちたような気がして、取返すことも忘れることもできないこの過ちが自分の罪であることを感じた。」

 アンドレイの生活は大きく変わる。父から独立し、大きな領地をあたえられる。もうけっして軍務につかぬことを決意し、戦争が再び始まっても、実践に参加することを避けるために、国民義勇軍の総司令官の一人に任命された父親の指揮下で義勇軍の徴募にあたった。そんあアンドレイのもとを2年ぶりに親友のピエールが訪れる。アンドレイの変わりように激しく胸を打たれるピエール。

「言葉はやさしかったし、唇にも、顔にも、微笑はあった、しかしまなざしは光が消えて、生命のひらめきがなく、自分では明らかにそうありたいと望んでいるらしいのだが、喜びに満ちた快活な輝きを目にあたえることができないようだった。アンドレイ公爵は痩せたというのでもないし、顔色が悪くなったというのでもなく、若さがなくなったというのでもなかった。しかし、長いあいだ何かひとつのことを思いつめたことをものがたる、このまなざしと眉間のしわが、ピエールの胸をはげしくうち、それに慣れるまで、しばらく彼を寄せ付けなかった。」

BBC「戦争と平和」ピエールと語り合うアンドレイ

BBC「戦争と平和」ピエールとアンドレイ

BBC「戦争と平和」アンドレイの妻リーザ

BBC「戦争と平和」アンドレイの父ボルゴンスキイ公爵

BBC「戦争と平和」帰還したアンドレイ

BBC「戦争と平和」アンドレイの息子の洗礼

イワン・クラムスコイ「トルストイ 1873年」トレチャコフ美術館

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