「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」8 ティルジット条約以後①
1807年7月9日の「ティルジット条約」によってフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。ロシアを第四次対仏大同盟から離脱させ、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加することを約束させた。強い男ナポレオンにたちまち征服され、5年後にはその男を見捨てるアレクサンドル1世とはどんな人物か。後年、ナポレオンはこう発言している。
「世の中には、人の心を魅了する資質を備えた人物がいる。アレクサンドル皇帝はその一人だ、それも、接触を求めてくる相手に特段の魅力を発揮するタイプだ。余が個人的感興の赴くままに身を処する人間だったら、彼に魅了されていたやもしれぬ。だが、このような長所、つまり知的側面や周囲の人々を魅了する資質とは別に、彼には、今一つ判然としない何かがある。うまく言えないのだが、たとえば貴殿に言葉を尽くしてあることを説明してもどうしても説明しきれない何か、そういうものが彼にはある。というか、彼にはいつも何かが欠けている。厄介なのは、ある特定の場合や状況下で、何が彼に不足するかが我々には予測できない点だ。なぜなら、彼には不足するものは、のべつ変化しているからだ」
このアレクサンドルを誰よりも巧みに描いているとされているのはメッテルニヒ。1809年以降オーストリア外相としてナポレオンを巧みに操って破滅に追い込んだ人物。
「アレクサンドルは、雄々しさと女々しさとが奇妙に混じりあった性格の持ち主だった。彼の判断は、常時、お気に入りの思想に左右され、これらの思想は、突発的な霊感により生じていた。抜き差しならぬ難局に追い込まれるのはこのためであり、立場や思惑が根本的に異なる人や物に対する過度の心酔を生むのもこのためだった・・・・。何かに好感を覚えた途端それに全身全霊で打ち込むが、当人も気づかぬうちに、かつての確信を維持できなくなる時が来る。つまり、かつてあれほど心酔したという確信も、その確信の故に特定の人々に恩義をうけた記憶も、維持できない時が訪れるのだ。彼の霊感は鮮烈で自然発生的であり、不可解にも、これは定期的に生じた。約束を守る男であり、これが、安易に義務を負う結果を生む。立場上、彼の思いつきは簡単に組織化され、しかもその思いつきが絶えず変わる。その一方で、約束を遵守せねばと思う気持ちが意識を混乱させ、態度を窮屈にさせ、自らをつらい立場に追い込むだけでなく、公益を損なう事態にまで追い込む・・・・。真の野心家になれるほど強靭な精神力は持ち合わせていないが、適当に虚栄心を満足させてお茶を濁すほど気が弱くもない。通常、確信をもって行動していたが、野望をあからさまにすることもあった。それは概ね、君主としての勝利ではなく、社交界で些末な勝利を目指している時であった・・・・。突発的な霊感が訪れる周期はほぼ5年で・・・・、これが訪れたときの彼は、これ以上ないくらい物わかりのよい自由主義者だった。当初ナポレオンに対しては激しい敵意を抱き、その専横的・征服者的側面を憎んでいた。1807年、ツァーリの物の見方に多大な変化が起き、1808年には、『フランス人民の皇帝』に対する個人的感情が豹変した」
トルストイは『戦争と平和』の中で、たびたび登場させているが内面まで個性的には描いていない。アウステルリッツの会戦を前にした1805年11月16日の場面。
「アレクサンドル皇帝の顔は、三日前の閲兵式のときよりもさらに美しかった。それは明朗さと若さに輝いていた。14歳の快活な少年を思わせるような、じつに無邪気な若さだった。そして同時に、それはやはり偉大な皇帝の顔だった。・・・若い皇帝は戦場に望みたい欲望をおさえることができなかった。そしてなんとか思いとどまらせようとする廷臣たちの諌止を聞かずに、12時に、第三縦隊においていた本営をはなれて、前衛軍の陣地へ馬をとばしていった。」
ジョアッキーノ・ジュゼッパ・セランジェリ「ティルジット条約後のナポレオンとアレクサンドルの別れ」ヴェルサイユ宮殿
フランソワ・ジェラール「アレクサンドル1世」
アウステルリッツの会戦「アレクサンドル1世」エルミタージュ美術館 軍事ギャラリー
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