「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」5 アンドレイ公爵①

 長編小説「戦争と平和」の登場人物の数はなんと559人。その中の中心人物は、ピエール、アンドレイ、ナターシャの3人。また、ナポレオン戦争が背景となっているが、その山場は、前半がアウステルリッツの戦い(1805年)、後半がロシア遠征(1812年)のボロディノの戦い。まずアンドレイを軸にアウステルリッツの戦いをみてみる。

 トルストイは、妻とともにアンナ・パーヴロヴナの夜会に登場したアンドレイ・ボルコンスキイ公爵をこう描いている。

「ボルコンスキイ公爵は背丈のあまり高くない、端正すぎて冷たいような顔立ちの、水もしたたるような貴公子だった。その容姿全体が、愁いを宿したようなものうげなまなざしから、歩調をくずさぬしずかな歩き方にいたるまで、あふれる生気をもてあましているような小柄な夫人とは、あまりにも極端な対照を示していた。彼はこの客間に集まっているすべての人々を知っていたばかりか、もうすっかりあきあきして、彼らを見るのも、彼らの話を聞くのも、退屈しきっているらしかった。これらのうっとうしい顔の中でも、美しい妻の顔が、彼にはもっとも鼻についているようであった。その美しい顔をゆがめて、顔をしかめると、彼は妻から顔をそむけた。」

 アンドレイは身重の妻を田舎で隠棲生活を送る父親のもとに託して、クトゥゾーフ将軍の副官としてまもなく出征することになっている。妻のリーザにはそれが不満でたまらない。

「『あたくしもうまえからあなたにお聞きしようと思ってましたのよ、アンドレ、どうしてあなたはあたくしに対してそんなにお変わりになったの?あたくしがあなたに何をしましたの?戦争にいらっしゃるなんて、あたくしをかわいそうともお思いにならないで。どうしてですの?』」

 妻には答えないアンドレイだが親友のピエールにはこう語る。

「『では、なんのためにあなたは戦争に行くんですか?』とピエールは尋ねた。

 『なんのために?わからんな。そうすることが必要だからさ。それに、ぼくが行くのは‥‥』彼は口ごもった。『ぼくが行くのは、ぼくがここで送っているこの生活、この生活が―――ぼくの性に合わんからだよ!』」

 彼の性に合わない生活とは、現在の結婚生活であり、サロン中心の生活だ。

「『ぜったいに、ぜったいにけっこんしちゃいかんよ、きみ。できることは、すっかりやりとげた、と自分に言えるときまで、結婚してはいけない。・・・さもないと、きみの中にある良い、貴いものが、すべて滅び去ってしまう。すべてがつまらんことに消耗されてしまう。・・・もしきみが今後自分に何か期待するにしても、一歩踏み出すごとに、きみにとってはもういっさいがおわってしまったことを、サロン以外はすべてが閉ざされてしまったことを、きみは身にしみて感じさせられるだろう。サロンで、きみは宮廷の下男どもや白痴どもと肩を並べることになるのだよ』」

「『アンナ・パーヴロヴナのサロンでも僕の話は好んで聞かれる。そして、それがなければぼくの妻も、あの婦人たちも生きてゆかれぬ、あの愚かしい社交界・・・・もしきみが、あのお上品なご婦人方が、すべて女たちというものが、どんなものか、知ることができさえしたら!ぼくの父は正しかったよ。エゴイズム、虚栄、愚鈍、無内容――これがありのままの姿をさらけだしたときの女なのさ。社交界に出たときの女たちを見ると、何かありそうに思える、ところが何もない、全く、何もありゃしないのさ!そうだよ、結婚しちゃいかん、きみ、結婚しちゃいかんよ』」

 ここまで結婚、社交界に否定的なアンドレイ公爵とはいったいどんな人物か。

「ピエールはアンドレイ公爵をあらゆる完成された美質を備えた典型と思っていた。というのはほかでもない、アンドレイ公爵は、ピエールにかけていたもの、そして何よりも意志の力という観念で表現されるにふさわしいようなあらゆる資質を、最高度にあわせもっていたからである。ピエールはつねづね、どのような人々にも落着きはらって対することのできるアンドレイ公爵の能力と、そのまれにみる記憶力と、広い知識と(彼はあらゆる本を読み、あらゆることを知り、あらゆることを理解していた)、そして何よりも彼のはたらき、そして学ぶことのできる力に、感服していた。」

 こんなアンドレイが「〈ぼくはもうぬけがらだよ〉」と言い、ピエールのことは「きみがぼくにとって貴重なのは、なんと言っても、きみだけが、われわれの社交界のなかでたった一人の生きた人間だからだよ」と言う。アンドレイは切実に生きる手ごたえを求めていた。

『戦争と平和』(2016年、BBC製作)テレビミニシリーズで全6話(計330分)

中央の3人が、左からピエール、ナターシャ、アンドレイ。複雑で長大なストーリーの全体像をつかむには適している。


『戦争と平和』(2016年、BBC製作)

ニコライ・ゲー「執筆中のトルストイ」トレチャコフ美術館

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