「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」2 アウステルリッツの戦い②

 「アウステルリッツの戦い」が行われたのは1805年12月2日。ナポレオンが戦った相手はオーストリアとロシア。しかし背後にいたフランスの主要な敵はイギリスだった。イギリスは、1793年に第一次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦して以来、フランスとの間で戦争状態にあった。ナポレオンは、このイギリスと1802年3月、アミアンで講和条約を結ぶ。10年ぶりの平和。第一統領ナポレオンは、国民にとって「平和の人」となり、国民の護符と呼ばれた。しかし、1803年5月、フランス船舶がオランダでイギリス軍によって捕獲されたことをきっかけにして、ナポレオンはイギリスに宣戦布告。ナポレオンにとって幸いなことに、スペインもイギリスに宣戦布告。1804年12月、南米から帰国途中のスペイン戦艦がイギリス艦隊に撃沈されたためだ。そして、ナポレオンが皇帝に即位(1804年12月2日)した翌月、両国は海軍協定を結んだ。こうしてフランス・スペイン連合艦隊が生まれた。

 ナポレオンにとって、イギリスは永遠の敵、世界の敵。警察大臣フーシェも、イギリスに対する敵意はナポレオンの固定観念になっていたと言っている。だから、1805年1月2日、ナポレオンがイギリス国王に書簡を送り、次のように講和を提案したのは虚言。

「講和は私の心からの願いです。和平が世界に与える幸せを陛下が拒絶されないように懇請申し上げます」

 書簡を送った1週間後に、ナポレオンは海軍大臣ドゥクレにイギリス攻撃を支持していることからも、この和平提言が虚言(「偽り行為の傑作」とも言われる)であったことは示されている

 ナポレオンは皇帝即位以前からイギリス上陸作戦を練っていた。1803年夏より、ドーヴァー海峡に面してカレーの西に位置するブローニュに、大規模な軍事基地を建設し、イギリス派遣軍の大兵力を集結させていた(このフランス軍のことを「大陸軍=グラン・ダルメ Grande Armee」と言う)。軍事基地も、大兵力の集結も、イギリス侵攻を狙ったものであることは、誰の眼にも明らかだった、

 イギリスも戦々恐々としていた。本土の地上軍は劣勢であるし、フランスの侵攻作戦が成功したらひとたまりもない。

「銀行がつぶれて、経済はめちゃめちゃだろう」  「民主主義思想がいっぺんに盛り上がるな」

 イギリス国民はよるとさわると、不安な予測におびえていた。そこでイギリスは、ナポレオンの目をライン川方面に向けるために、金に糸目をつけずヨーロッパ列強を味方に引き入れようとする。まず1805年1月、年間8万ポンドの援助金に釣られてスウェーデンがイギリスと協定を結ぶ。次にイギリスが目をつけたのが、ヨーロッパ支配の執念に凝り固まったロシア。1801年に親仏派のパーヴェル1世が暗殺され帝位を継いだ息子のアレクサンドル1世は、ヨーロッパの盟主となる野望を抱いており、ナポレオンを敵視していた。そのナポレオンは、イタリア共和国もイタリア王国に変え、自らイタリア王となり、ミラノのドゥオーモで1805年5月26日に戴冠した。アレクサンドル1世は、ますますナポレオンへの態度を硬化させていた。イギリスはそんなロシアへの働きかけを活発化させ、年額125万ポンドにのぼる多額の援助金を申し出る。こうして1805年4月11日、イギリスとロシアはペテルブルグ協定を結ぶ。あとはこの協定を対仏同盟に拡大するだけ。イギリスとロシアは必至でオーストリアを引きずり込もうとする(イギリス首相は1804年5月10日からウィリアム・ピット)。

「対仏同盟用の500万ポンドのうち、相当な額をまわしてあげよう」

「いざとなればロシア軍が救援に駆けつけるし、イギリス軍はオランダ海岸のみならずフランス海岸にすら上陸を企図している」

「オーストリアにはフランシュ=コンテ、アルザス両地方とベルギーを与えよう」

 あの手この手の誘い水。もちろんフランスも黙っていない。タレーランがオーストリアの説得に当たる。『モニトゥール』紙(7月22日付)が堂々たる論陣をはり「ヨーロッパ会議でも開いて、各国は50年前からの侵略した領土を返したらどうだ」と、ヨーロッパ列強の帝国主義を攻撃した。オーストリアも、おいそれとは動けない。それでもイギリスとロシアの執拗な呼びかけに応じて、8月9日、ついに正式にペテルブルク協定に参加。こうして第三次対仏同盟が結成された。

ブーローニュの「大陸軍(グラン・ダルメ)」

パリ凱旋門から見た「グラン・ダルメ(大陸軍)大通り」

ジョン・ホプナー「ウィリアム・ピット」

ジョージ・ドー「アレクサンドル1世」ロイヤルコレクション2

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