「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」8 壮麗王スレイマン大帝(3)死
ウィーンの征服こそならなかったが、ハンガリー王にはオスマン帝国が推すサポヤイが即位。しかし依然としてフェルディナントは全ハンガリーの王位を主張。ウィーン包囲のショックによって口先だけとはいえ足並みをそろえたキリスト教国側の軍事力の総結集を誇示・力説してスレイマンに圧力をかけ、ハンガリーの返還を求める。1532年4月、スレイマンは再びウィーンを目指す。第3回ハンガリー遠征である。カール5世はプロテスタント諸侯に譲歩してその協力を得、自らウィーンに入って決戦に備えていた。しかし今回スレイマンの軍はハンガリー南部をゆっくり進み、ウィーンの南100キロほどにある要塞を陥落させた後は、さらに西進し、グラーツに入城。カールを誘い出し、「モハッチの戦い」の再現をもくろんでいたようだがカールは誘いに乗らない。スレイマンは今回もウィーン獲得には至らなかった。しかし、これらのヨーロッパ中心部に至るオスマン軍の進軍は、ハプスブルク家のバルカン進出の夢を挫き、和解への道を開いた。1533年、フェルディナントがハンガリーの北部と西部を、サポヤイ・ヤーノシュが中部と南部を領有することでオスマン帝国とハプスブルク家が合意し、分割された二つのハンガリーの双方が、それぞれオスマン帝国に貢納金を支払うことを定めた和約が結ばれた。これによって、スレイマンのハプスブルク帝国に対する優位性が明確になった。
しかし、1540年にサポヤイ・ヤーノシュが死ぬと、この和約は破られる。サポヤイの子はまだ生まれていなかったため(妻は妊娠中)、フェルディナントがその後継を主張し、ブダを占領したからである。スレイマンはこれを機に属国ハンガリーの併合に踏み切り、翌41年には遠征軍を起こしてブダに入城、この町を含むハンガリー中央部をオスマン領に組み入れた。東部ハンガリーは死んだサポヤイの息子ヤノシュ・ジグモンドを名目的な君主とする属国(トランシルヴァニア侯国)となった。オスマン帝国によるこのハンガリー領有は、1547年にカール5世との間に結ばれた条約によって確認される。一方ハプスブルク家はその条約で、ハンガリー北辺の領有を認められた代償に、毎年ヴェネツィア金貨で3万ドゥカートの貢納金を、オスマン政府に支払うことを約束させられたのであった。
しかし、スレイマンの盟友たるフランソワ1世は、1544年のクレピーの和約によってカール5世と和議を結び、さらに1547年初頭には世を去っていた。したがって西洋世界には、ある種の安定が訪れ始めていた。そうした安定が、必ずしもスレイマンの西方作戦を困難にしたわけではないが、このころからオスマン軍の矛先は、むしろ東方へ向けられていたように見える。1558年カール5世が世を去る。1564年にはフェルディナントも。そして1565年、ウィーン包囲を知らない跡継ぎのマクシミリアン2世は、亡父が望みながら実現できなかったトランシルヴァニアの領有権獲得を目指して軍を起こした。同じ年スレイマンは、かつての恩義を忘れてオスマン艦船襲撃を続けていたヨハネ騎士団を打倒すべく、その新しい根拠地マルタ島を包囲させたが、惨憺たる敗北。この敗北の記憶を拭い去るためにも、老いたスルタンは、若い神聖ローマ皇帝を完膚なきまでに叩きのめす必要があった。
こうして1566年5月、70歳をとうに超えたスレイマンは馬車に乗って首都を出発する。しかし彼はすでに病んでいた。オスマン軍はマクシミリアンの軍を押し返し、さらにハンガリー西部の重要都市シゲトヴァルの包囲を進めた。しかし、その陥落が間近というところでスレイマンは亡くなった。戦場でもずっと病床にあったと言われる。
ハンガリーの分割
「スレイマーン大帝」
ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ
ウィリアム・スクロッツ「マクシミリアン2世」ウィーン美術史美術館
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