「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」9 スレイマン大帝の死から第二次ウィーン包囲
1566年のスレイマン大帝の没後、1571年にはヴェネツィア領だったキプロス島を征服、同年のレパント沖での敗戦(スペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアの連合艦隊に敗れる)をものともせず(オスマン帝国は翌年には海軍を再建)に、1574年にはチュニジアを支配下に組み入れて北アフリカのほぼ全域を改めて支配下におさめ、オスマン帝国が相変わらず地中海世界の王者であることを誇示していた。しかしその後は、目だった戦果のあがらない消耗戦(1593年~1606年の対ハプスブルク戦=「長期戦争」、17世紀前半の対サファヴィー朝戦)が断続的に続いていた。この東西での戦役の間、スルタン自身が戦場に赴いたのは、メフメト3世の即位直後の一度のみである。スルタンはイスタンブルの宮廷の奥深くで暮らす存在になっていた。そして、スルタンがトプカプ宮殿にこもるようになると、宮廷内のハレムのもつ役割が急速に大きくなっていった。
戦争の長期化は財政を圧迫し、戦場から遠く離れたイスタンブルの人々の上にも暗い影を落とし始めた。 イスタンブルでは宮廷内の権力争いが次々にショッキングな事件となって表にあらわれた。イェニチェリ軍団によるオスマン2世の殺害(1622年)、ハレムの実力者キョセム・スルタン(アフメト1世【在位1603‐17】の妃,ムラト4世およびイブラヒムの生母。オスマン帝国史上、女性として最長にして最大の権力を有したといわれる)の30年にわたる権勢、彼女の殺害(1651年)など、ハレムを舞台にした混乱はとくに顕著であった。その背後にはハレムの女性たちを巻き込んだ「オスマンル」たちの抗争があった。「オスマンル」とはトルコ語で「オスマンに属するもの」の意で、宮廷出身軍人、常備軍指揮官、ウラマー(イスラムの学者・宗教的指導者)などからなり、スレイマン大帝の時期以後、スルタン個人の表舞台からの後退と反比例して、政治の前面にあらわれてきた。
17世紀中葉のオスマン帝国は、アナトリアでの反乱(中央での混乱が波及)にくわえ、ヴェネツィアによるイスタンブル近郊の島の占領とイスタンブル封鎖(1646年)という事件にも直面していたが、それらすべてを収集すべく全権を委ねられたのが、軍人政治家キョプリュリュ・メフメト・パシャであった。彼は大宰相として、ヴェネツィアからイスタンブル近郊の島を奪い返し、さらに、宗教戦争の続く(1618年~48年三十年戦争)中央ヨーロッパで独自の行動をとろうとした属国トランシルバニアへの遠征を成功させ(1660年)、またアナトリアの反乱を大規模な粛清で収拾した。彼の後を継いだ一族の政治家たちによって、17世紀後半、内政は比較的安定した時期をむかえる(キョプリュリュ時代、1656年~91年)。
こうした秩序回復を受け、再びハプスブルク家オーストリアに向けての対外戦争が始められた。それに先立つ60年間、両国は「長期戦争」後に結ばれた(1606年)「ツィトヴァトロクの和議」に基づき、一応の平和を保っていた。オーストリアは三十年戦争(1618年~48年)に、オスマン帝国は国内政治の混乱の収拾に、それぞれ力を割かざるをえなかったからである。キョプリュリュ・メフメト・パシャをついで大宰相となった長子のファズル・アフメトは、1663年に対オーストリアの戦いを開始し、ハンガリー西部では大きな敗戦もあったが、翌年結ばれた和平はオスマン側に満足のいくものだった。さらに、地中海では、長い包囲戦の結果、1669年にようやくカンディアを落としてクレタ島を征服した。続く1672年からは、ウクライナをめぐってポーランドとの戦争を始めた。同じく1672年にはドニエプル川とドニエストル川の間のポドリア地方(現ウクライナ)を獲得し、この時、オスマン帝国のヨーロッパ側での領土はその歴史上最大となっている。
「レパント沖の海戦」ロンドン 国立海事博物館
キョセム・スルタン
キョセム・スルタンの暗殺
トゥルハン メフメト4世の母で、キョセムを暗殺
キョプリュリュ・メフメト・パシャ トゥルハンによって大宰相に任命
キョプリュリュ・アフメト・パシャ
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