「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」7 壮麗王スレイマン大帝(2)第1回ウィーン包囲②

 スレイマンはウィーン到着に先立ち、イスラム法にのっとって降伏を勧告したが、当然ながら拒否された。そこで、到着と同時に包囲を開始。包囲軍は直ちに攻撃を開始したが、ウィーンの守りは堅かった。オスマン軍の到着が遅れたことがウィーンに幸いしていた。城壁の補修は十分に行えたし、弾薬、食料も有り余るほどに蓄えられた。消防の施設が整えられ、城壁外の家屋は取り壊されていた。そしてカトリック勢力の中心バイエルン候に率いられたウィーン防衛軍2万は、10000人あまりの市民義勇兵とともによく防戦に努め、城壁突破の切り札である巨大砲を進軍途中で置き去りにしてきたオスマン軍の攻撃をしのいでいた。

 オスマン軍が攻城に手間取るうちに、10月も半ばに近づいた。ウィーンの冬は早く訪れる。気候は厳しさを加えはじめ、大軍への物資の補給にも不安が生じてきた。10月14日、スレイマンは包囲を解いて撤退することをついに決意。オスマン軍は、来襲したときと同じく、粛々として撤退していった。

 オスマン軍のウィーン包囲は、コンスタンティノープル陥落以来の衝撃を、西欧キリスト教世界に与えた。しかも、前回の衝撃は、遠い東方の象徴的意味を持つ都の悲劇にすぎなかったのに対し、今回の衝撃は、ごく身近に危険が迫っていることを実感させた。

 ここで注意しなければいけないのは、オスマン帝国の脅威は決してヨーロッパを一枚岩にしたわけではなかった、という事実。当時のヨーロッパには、フランス対ハプスブルク家、カトリック対プロテスタントの対立が存在していたが、プロテスタント勢力、フランスは自らの勢力拡大のためにオスマンを利用したのだ。1526年のスレイマンの第2回ハンガリー遠征。窮したカール、フェルディナント兄弟による支援の要請に対し、新教諸侯はオスマン帝国の脅威を初めて取引材料として用いる。その結果、1526年、シュパイアーで開かれた帝国議会において、新教諸侯と帝国都市とは教義を選ぶ宗教上の決定権を与えられた。しかし、1529年春、フランス(フランソワ1世)との抗争に一段落つけた皇帝カール5世は、再びシュパイアーで開いた議会で3年前の譲歩を一方的に撤回する。これに「抗議」した諸侯は「抗議書」を提出。これが政治勢力としての「プロテスタント」の誕生である。そして同年9月、スレイマンの大軍がウィーンに迫ると、皇帝兄弟は諸侯を動員する。今回、「抗議」していた諸侯もその動員に無条件で応じる。それほど、オスマンのウィーン進軍、包囲はキリスト教世界にとってあまりに大きく、深刻な危機と受け止められた。トルコ人と戦うな、と述べていたルターも、今回はハプスブルク兄弟を助けることに賛意を表していた。しかし、オスマン軍が撤退すると、プロテスタント諸侯は翌1530年、ただちにシュマルカルデン同盟を結成して、再び皇帝の宗教弾圧策に対抗することとなる。

 フランスは、1525年、ハプスブルク軍に「パヴィアの戦い」で大敗を喫し、あろうことかフランソワ1世が捕虜となってしまった。莫大な賠償金と二人の王子の人質を条件に釈放されるが、解放されたフランソワ1世はハプスブルク家に対抗してヨーロッパにおける勢力均衡を作り出すため、なんとオスマン帝国に接近する。1525年中に窮状を訴える書簡をイスタンブルへ届け、スレイマンから同情を表す返書も得て、両者の関係は親密の度を増してゆく。1534年にはオスマン使節団がマルセイユに上陸し、パリを訪れるに至る。さらに翌年、フランス側の使節がイスタンブルへ到着して、両国の同盟関係が確認され、1536年初頭にはオスマン領内においてフランス人が交易を行う自由、フランス領時のオスマン領内常駐、さらに彼らによる領事裁判権を内容とする通商特権(いわゆる「カピチュレーション」)の賦与が約束される。そして1543年には、援助を求めたフランスの要請にこたえて、オスマン海軍最高司令官バルバロス・ハイレッティン率いる艦隊がマルセイユ、トゥーロンに姿を現す。そして、フランス軍と協力して、当時神聖ロー皇帝側についていたニースを攻略したのである。

1543年 フランス=オスマン連合艦隊によるニース包囲戦

 「ニース」はイタリア語では「ニッツァ」(NIZZA)

バルバロス・ハイレッディン   

 名高い海賊だったが、スレイマン大帝によってオスマン海軍の最高司令官になる

ティツィアーノ「フランソワ1世」ルーヴル美術館

フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス「カール5世」プラド美術館

1529第一次ウィーン包囲

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