「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」6 壮麗王スレイマン大帝(1)第1回ウィーン包囲①

 スレイマン大帝は、半世紀近い治世の間に、13回の親征を行い、その足跡は西はウィーン、東はイランのタブリーズ、イラクのバグダードに及んだ。しかし彼の関心は、とりわけ西方に向けられていたかに見える。即位の翌年の第1回親征の標的はベオグラード。ドナウ川とサヴァ川の交わるところに位置し、キリスト教世界にとっては、オスマン帝国の侵攻を幾度も食い止めてきた拠点。征服王メフメト2世も征服かなわなかったこの要衝をスレイマンは2か月の包囲で陥落させ、新王の脅威をヨーロッパに知らしめた。ハンガリー王の支配するベオグラードを手中にしたことは、スレイマンがさらに北上して、ハンガリー、さらには中央ヨーロッパを狙う鍵を手に入れたことを意味した。

 1522年、第2回目の親征によってロードス島(アナトリア西南端にあって、黒海・イスタンブル・地中海を結ぶ海上交易路の戦略拠点。当時、聖ヨハネ騎士団がここを根拠地にして、キリスト教徒の海上交通を守り、ムスリム船に対してはこれを攻撃捕獲し、海賊活動を行っていた)を征服し聖ヨハネ騎士団を追放。これにより、イスタンブルとカイロを結ぶ海路の安全が確保され、東地中海の制海権もほぼ手中に帰した。

 第3回目の親征の矛先はハンガリーに向けられた。ハンガリーは14世紀末から、オスマン帝国の北進に対する防壁となってきた。しかし、1526年4月、10万の兵を率いてスレイマンがイスタンブルを出陣したときハンガリーを統治していたヤギェヴォ家のラヨシュ2世の援軍要請にこたえる勢力は、ただのひとつも存在しなかった。見捨てられたラヨシュは、国内勢力の結束もできないままに8月、モハチュで決戦を挑む。しかし、300門の大砲を擁する圧倒的なオスマン軍に粉砕され、国王自身も戦死。

オスマン軍はさらにハンガリーを北上して、9月に首都ブダに入城し、これを掠奪。生き残った貴族たちはスルタンに臣従を誓った。しかしスルタンがイスタンブルへ去ったのち、彼らは後継国王の選出をめぐって内紛を起こす。多数派は、トランシルヴァニア候でヤギェヴォ家とは姻戚関係にあるサーポヤイ・ヤーノシュを国王に選んだが、カール5世の弟であるハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを推す人々もいた。フェルディナントは、戦死した先の国王ラヨシュ2世の姉を妻としていた。サーポヤイは、外国人の王を敬遠する多くのハンガリー人の支持を得、さらにハプスブルク家の強大化を喜ばないあらゆるヨーロッパ勢力から好意の眼で迎えられた。しかし、実質的に何の援助も得られず、結局ハプスブルク家によって首都を追放される。彼を救えるのは、ただスレイマンのみ。サーポヤイはイスタンブルに使者を送り、封臣として援助を要請する。スレイマンはそれを受け容れる。フェルディナントとその背後にいるカール5世とを討つべく、1529年5月10日、12万の兵、数百の大砲、3万にもおよぼうという輸送用のラクダとラバとを備えた大軍とともに、イスタンブルを発ったのである。

 9月にスレイマンは、モハチュでサーポヤイを臣従させた上で改めてハンガリー国王に就け、さらにブダへ向かう。数日の包囲でこの町を陥落させると、次いでウィーンへの進軍を命じた。国際情勢は、スレイマンに味方していた。皇帝カール5世は、宿敵であるフランス王フランソワ1世と争っていたため、弟フェルディナントを救援することができなかった。そしてそのフェルディナントは、ウィーン陥落に備えた布陣をしくため、ウィーンを捨ててドナウ川上流のリンツにいた。ヨーロッパの危機は深刻だった。この年2月、「信仰の自由」取り消しという皇帝の背信に対して、「抗議書」を提出し、「プロテスタント」として結束したばかりのドイツ新教諸侯ですら、フェルディナント救援を躊躇しないほどだった。キリスト教徒同士が争いを続けている場合でないことが、すべての人々に認識されていた。

 しかし、オスマン軍の今回の進軍は、初めから天候に恵まれなかった。大雨と洪水に悩まされ、ベオグラードへ到着するまでに、すでに2か月が費やされていた。9月27日に彼らがウィーン城下へ到着した時も、豪雨の中だった。泥濘に足を取られる兵を見て、寒さの近づくことを恐れたスレイマンは、進軍の妨げとなる巨大砲を捨ててウィーンへ急いでいた。

ロードス島「騎士団長の館」 外観

ロードス島「騎士団長の館」

ロードス島攻囲戦

ハンガリー王ラヨシュ2世

セーケイ・ベルタラン「モハーチの戦い」ハンガリー国立美術館  

 ラヨシュ2世の遺体の発見

ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ

オーストリア公フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)

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