「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」1 メフメト2世即位まで

 13世紀の末にアナトリア(小アジア)の西北部の一支配者として出発したオスマン侯国の周囲には多くのライバルがひしめいていた。そのなかでオスマン侯国が世界帝国への切符を手にすることができたのは、諸侯国の中で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領にもっとも近いところで成立したため、ビザンツ勢力との提携という機会を得ることができたからだ。1346年のオスマン侯国の第二代君主オルハンの結婚についてみてみよう。

 1341年、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世が死んでコンスタンティノープルでは後継者争いが激化したが、対立する二派のいずれもがアナトリアの侯国との提携を図った。カンタグゼノス家のヨハネス(のちの皇帝ヨハネス6世)はオスマンのオルハンに白羽の矢を立て娘テオドラとの結婚を成立させた。長い歴史の中で外敵の侵略に幾度も晒されてきたビザンツ帝国にとって、こうした戦略は珍しくなかった。オスマン側にとっても、キリスト教徒との交流は日常的にあったし、イスラム法的にも、キリスト教徒の妻を持つことは問題とならなかった。

 ヨハネスの期待に応え、オルハンはダーダネルス海峡を越えてバルカンに渡り、戦果を挙げ、1345年には海峡の要所ゲリボルを獲得し、ヨーロッパ側に地歩を確立、南バルカンに拡大する機会を得た。オスマン朝のバルカン支配の橋頭保が、ここに築かれたのである。まもなくヨハネス6世は失脚(1354年)しオスマン侯国とビザンツ帝国の同盟は消滅するが、オスマン勢力のバルカンでの足場はすでに確たるものとなっていた。このようなオスマン帝国の勃興に対して、バルカンではセルビア王とボスニア王を中心とした反オスマン同盟がむすばれ、1389年に天下分け目の決戦「コソヴォの戦い」が行われ、オスマンが勝利。セルビアを支配下に入れ、バルカンにおけるオスマンの支配域はさらに広がった。これに対して、ハンガリー王ジギスムントは十字軍(「ニコポリス十字軍」中世最後の大規模な十字軍)を呼びかけ、西欧各地からの騎士が彼のもとに集まるが、1396年、「ニコポリスの戦い」でバヤズィト1世はこの挑戦を退ける。しかし突如として東方からあらわれたティムール軍との戦い(1402年「アンカラの戦い」)に敗れる。バヤズィト1世は捕虜となり間もなく死亡。オスマン帝国は瓦解し、一度はオスマン領となっていたバルカン、アナトリアの各地はふたたび自立する。しかしオスマン帝国に代わる有力な勢力の結集はみられず、メフメト1世、ムラト2世のもとで体制を立て直したオスマン帝国は、15世紀前半に旧領の多くを回復する。そして1444年、いよいよ「征服王」と呼ばれることになるメフメト2世が即位する。

1360年ころのオスマン侯国


「ニコポリスの戦い」

ジャン・フロワサール「ニコポリスの戦い」

初代から11代まで

初期のオスマン領

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