「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」2 メフメト2世即位
1444年、メフメト2世は若干12歳で即位。父ムラト2世の退位は、とくに対外関係に大きな影響を及ぼした。ハンガリーが結んだばかりの和平条約を破棄して侵攻を試みる。王位を要求し、ビザンツ帝国の後ろ盾を得て攻撃を仕掛けるものが出てくる。イェニチェリ軍団の騒擾が勃発する。結局、この危機を乗り越えるためムラト2世が復位。だから「征服王」と呼ばれるメフメト2世の治世の開始は、1451年の二度目の即位からである。
メフメト2世がまず行ったのは、まだ生まれて間もない乳児の弟アフメトの処刑。これが、悪名高いオスマン帝国の「兄弟殺し」(スルタンの即位時にその兄弟を処刑する習慣)の創始である。目的は、君主が専制化し兄弟の協力を要しなくなってくるという状況の中で、イスラム法上は父の遺産に対して平等の相続権を持つ兄弟間での、皇位争いを防ぐことにあった。メフメト2世の晩年に編纂された『法令集』では、「世界の秩序のために、兄弟を処刑することは許される」という規定が定められ、兄弟殺しが明文化された。しかし、このような慣行は、自由人のムスリムを裁判なしに処刑することを禁じているイスラム法(シャリーア)に反しているのではないか。その通り。オスマン帝国は、本来のイスラム法に反してまで、オスマン家内部でのライバル出現の危険の回避を図ったのである。この慣行は、16世紀末のメフメト3世の即位時まで続き、17世紀前半に廃止。幽閉制がとられるようになり、一族の年長者(多くの場合、前スルタンの弟)が皇位を継承するようになる。
そして弟を処刑したのち、メフメット2世はいよいよビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服する意思を固める。ここはローマの首都。そしてローマこそは、キリスト教もイスラムも、その中から生まれ育った地中海世界の王者であった。こうした認識があったからこそ、イスラム勢力はその最初期からこの町を包囲し、征服しようと試みてきた。その街を征服することができれば、オスマン帝国とその支配者メフメットの勝ち得る栄光は計り知れないものになる。
メフメトは、コンスタンティノープル征服に向けた初手として、ボスポラス海峡がもっとも狭まるところ(コンスタンティノープルの北15キロほど)のヨーロッパ側の岸に要塞(「ルメリ・ヒサール」)を突貫で建設させた。建材の不足は、近隣の教会や修道院を破壊することでおぎなわれた。この要塞の完成で、かつてバヤズィット1世がアジア川の対岸に建設したアナドル要塞(「アナドル・ヒサール」)とあわせて、コンスタンティノープルは黒海との連絡を遮断され、オスマン軍はアナトリア側からの迅速かつ安全な兵員の移動を保障された。工事中に、ビザンツ側は驚いて再三抗議したが、メフメットは耳を貸さなかった。
コンスタンティノープルを攻略する上での最大の障害は、幾多の外敵を退けてきた三重の大城壁だった。その攻撃のために巨額の報酬で迎え入れられたのがハンガリー人技術者ウルバン。彼はその直前に、ビザンツ側に巨砲製造技術を売り込んだが、資金不足を理由に断られていた。当時のオスマン帝国は、それが異教徒の世界の所産であろうと、新技術の採用には非常に熱心だった。もちろん新技術採用には高額な対価の支払いが必要だったが、それは、広がった領土からの税収と東西交易ルートの確保によって豊かになった財源が可能にしていた。さらに、多くの軍艦・輸送船の建造・改修が進められ、最終的には300隻をこえる艦船が集められた。また必要な兵員と物資を調達するために、帝国各地に動員令を出した。中央集権的なシステムが確立してきたこともあり、準備は順調に進んだ。
ではビザンツ側はどのような策を講じたのか?ビザンツ最後の皇帝となるコンスタンティノス11世は、すでに1451年の夏にイタリアへ急使を送って救援を懇請していた。皇帝はギリシャ正教とカトリック教会の合同もやむをえないと考えていたが、コンスタンティノープルには、断固としてそれに反対する者も多かった。しかも皇帝の要請に対する教皇とヴェネツィアの対応は遅く、さらに双方の間には不信感も醸されていた。それでも遅まきながらこの両者からは戦隊が東方に向けて出港したが、他の諸国はまったく反応すら示さなかった。結局、コンスタンティノープルが頼りにできるのは、数世紀にわたってイスラム教徒を撃退してきた堅固な城壁と、金角湾口に沈めて湾を閉ざした鎖だけだと言っても過言ではなかった。
ルメリ・ヒサール
アナドル・ヒサール
イスタンブール市街とボスポラス周辺図
「ビザンツ帝国が、オスマン艦隊の侵入を阻止するため金角湾口に張り渡した鎖」( イスタンブール軍事博物館)
15世紀末にトルコの画家によって描かれたメフメト2世の肖像画
バラの花を嗅ぐ帝王特有のポーズ
1451年のメフメト2世の即位
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