「サン・バルテルミーの虐殺」13 虐殺2

 計画実行の合図は、市庁舎の鐘だった。しかしその1時間半まえにサン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘のほうが鳴ってしまい、暗殺者たちはその音を聞きつけ、カトリーヌが虐殺は避けるべきであると判断したちょうどその頃に、犠牲者たちにとびかかっていったのである。こうして、カトリーヌの意に反した大虐殺が生じてしまったのである。

 ギーズに忠誠を誓う殺し屋ベームがコリニーのもとに向かう。コリニーはベッドに寝ていた。ベッドで寝ている人間を殺すのは貴族のなすべきことではない。しかしベームには関係ない。短刀で滅多刺しにし、息絶えたコリニーを窓の外に放り投げた。殺人はすぐに20数名の名指しされた犠牲者たちを始末するプロの殺し屋たちだけのものではなくなり、民兵集団や下層民たちまでが、通りや家々の中で、本物の人狩りに熱狂する。コリニーの邸宅は、彼らによって襲撃され、略奪された。提督の死体に襲いかかり、衣服をはぎ取り、死体を切り刻み、片腕と頭を切断し、残る部分を引きずって歩き、セーヌ川に投げ捨てた。さらに別の者たちが川から引き揚げ、死体を引きずって市内を練り歩く。最後は、モンコーフォン(現在のビュット・ショーモン公園)の絞首台に足先から逆さづりにされた。

 他の犠牲者たちにも、同様の忌まわしい仕打ちがなされた。飢えたる群衆は野放し状態になった。彼らは、《ユグノー》という言葉さえ掲げていれば、自分たちもまた好き勝手に獣的な犯罪行為に走ってもいいのだと思い込んでいた。しかし、被害者はユグノーにとどまらなかった。人々は、普段から自分たちが殺したいと思っていた連中までをも、気晴らしあるいは利害の上から、殺した。不快な隣人を殺し、略奪したいと思っていた相手を殺害した。借金を帳消しにするために、債権者を始末した。訴訟を敗訴にした裁判官が殺され、勝利した訴訟人もまた殺害された。事件が始まった日の最初の何時間かは、殺人者たちはプロテスタントたちを優先的に選んでいた。だが、その後は、金になりさえすれば、どんな犠牲者だってよくなった。宝石商や金銀細工師の家々は、すぐれて敬虔なカトリックであるにもかかわらず、略奪破壊をほしいままにされた。信じがたいことだが、パリ大学のあるギリシア語の教授は、そのポストを狙うもうひとりの教授によって殺された、と言われる。

王は虐殺を中止させようと命令を発するが耳を傾ける者はいない。暴徒を取り押さえるべく命令されていた王の親衛隊でさえ、殺戮と略奪の陶酔感に流され、暴徒たちに合流した。しかし、王の中止命令が出た以上、それ以後の虐殺は非合法。国王の承認もないのに、虐殺が継続されたのはなぜか?神その人の保証が表れたからだ。どういうことか。群集の間にひとつの噂が広まる。「イノサン墓地」(現在のレ・アル地区、フォーラム・デ・アルのある場所にあった)の聖処女像の足元に生え、水不足で枯れ、何年も前から一つだに花をつけていないサンザシが、突如、この季節外れの時期に花を咲かせた、というのだ。これは奇跡だ。神がユグノーの皆殺しを承認し祝福しておられる知らせだ。もはや地上の王は忘れられる。

 カトリーヌはこのような事態をどう受け止めていたのだろうか?実は、絶望と恐怖のあと彼女を訪れたのは深い安堵感だった。もはや彼女に恐れるものは何もなくなっていた。戦争もコリニーも、自分の権力を脅かす危機も。自分を圧し潰しかねなかった重いくび木から一度に逃れたような解放感。虐殺後初めてカトリーヌに会見したサヴォワ大使はこう語っている。

「彼女は十年も若返り、大病が回復したか、大きな危険から逃れた人のような印象を与えます」

 もちろん彼女は、常に今なすべきことが何かを忘れることはない。この虐殺で得られた「大勝利」を、早急に完全なものにすること、それから一日も早く、王国内の秩序と平和を取り戻すこと。ただちに彼女の提案により、国王の手で「声明と勅令」が作成され、馬に乗った役人がパリ中にふれ回った

「コリニー提督とその一派の死刑執行は国王自らの緊急勅令によって行われた。・・・国王に対する提督の陰謀計画を未然に防ごうとしたのである。それが成し遂げられた今、国王は新教徒が王権の保護のもと、自宅で妻や子や家族とともに安全に暮らす権利を保障し、承認する。」

フランソワ・デュボワ「聖バルテルミーの虐殺」ローザンヌ美術館

アレクサンドル=エヴァリスト・フラゴナール「聖バルテルミーの場面」ルーヴル美術館 マルグレットの寝室に逃げ込んだユグノーとその殺害

ジョゼフ=ニコラ・ローベル=フルーリー「聖バルテルミーの場面」ルーヴル美術館

エドワール・ドゥバ・ポンサン「サン・バルテルミの虐殺におけるカトリーヌ・ド・メディシス」ロジェ キリオ美術館

1550年 イノサン墓地

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