「サン・バルテルミーの虐殺」14 その後

 結局、パリ市内だけで約3000名が殺され、フランス全体で約1万人が殺されたという。このサン・バルテルミーの大虐殺事件によって宗教戦争は新たな段階に入った。大虐殺の後、パニック状態に陥ったプロテスタントの中からは大量の改宗者が現れ、一方、改宗を拒否したプロテスタントの一部は亡命する。しかし、残ったプロテスタントはより過激になり、国王から決定的に離れていく(それまで、フランスのプロテスタントは、カルヴァンの政治思想にそって国王を尊重していた)。そして、君主を選ぶ権利は人民にあり、君主が暴政を行うならば追放することができるとする「暴君放伐論」(オットマン『フランコ・ガリア』など)が唱えられた。これに対するのが、国王を味方に引き込んでプロテスタント撲滅を画策する、ギーズ家に代表される強硬カトリック。ところが、サン・バルテルミーの大虐殺は、両派の中間となる、もう一つのグループを生み出した。異端の根絶よりも、宗教対立の平和的解決を目指す「ポリティーク派」である(カトリーヌ・ド・メディシスは早くからこの立場だった)。国王裁判所である高等法院の司法官や弁護士など、法曹家を中心とした穏健なカトリック教徒に対する蔑称として、1568年ごろからこの表現が用いられるようになった。そして大虐殺以後、彼らは公然と発言を始める。

   「王国の分裂を招きかねない深刻な事態をどのように収拾すべきか」

   「権力をいかなる機関とも、いかなる組織とも分有することのない、

                   強力な国王以外に誰が収拾できるだろうか」 

 強い王権、強い国家の出現を期待する声が、日増しに強まっていく。何者にも縛られない絶対王政への道はこうして、国内の混乱を解消するための手段として準備されるのである。

 ところで、大虐殺の日以来、すっかり変わってしまったのが国王シャルル9世。あの残酷な行為を許した自分を責めさいなみ、その記憶から逃れようとして酒と放蕩に身を持ち崩していく。放埓な生活のせいで持病の結核はみるみる悪化し、1574年5月31日歿する。享年23歳。新国王になったのはポーランド王になっていた弟のアンリ三世。彼は「ポリティーク派」を形成するが、ユグノー派の要求とカトリック側の反発の間で揺れ動き、翌年から5年間に三度の戦乱を引き起こしてしまう。カトリックは1576年に「旧教同盟」(「リーグ」ギーズ公アンリによって結成された過激派カトリックの同盟)を結成していたが、1588年、アンリ3世は、パリを掌握した旧教同盟派と衝突してパリを追われる。しかし同年7月、歴史的大事件が起きる。旧教同盟を支援していたスペインの「無敵艦隊」がアルマダの海戦でイングランドに致命的な敗北を喫したのだ。これに勇気づけられたアンリ3世は、12月にギーズ公アンリとその弟ロレーヌ枢機卿を暗殺させた。カトリーヌの死の前年のことである。

 ところで、アンリ3世には子がいなかったので、王位継承者は王弟で、ヴァロワ家最後の血筋であるアンジュ―公フランソワだけだったが、1584年に病死してしまう(29歳)。こうして王位継承権の第一位はナヴァル王アンリとなる。彼は1576年にカトリックから再改宗してユグノー陣営に戻り、その領袖になっていたため、ギーズ公アンリら旧教同盟はナヴァル王アンリから王位継承権を剥奪してしまう。しかしアンリ三世は、ギーズ公アンリ暗殺後ナヴァル王アンリを王位継承者と認める。二人は共同してパリ奪回を図ったが、パリ攻囲中に、旧教同盟の狂信的支持者のドミニコ会修道士ジャック・クレマンによって暗殺されてしまう(1589年8月)。ここにナヴァル王アンリがアンリ4世として即位することになる。

 しかしアンリ4世の即位でも、争いは終結しなかった。外国からの干渉、国内の際限ない分裂対立という危機に遭い、1593年、アンリ4世は再びカトリックへ改宗した。そして1594年、正統の国王としてようやくパリに戻り、1598年にブルターニュを帰順させ、8次にわたったユグノー戦争はようやく終結した。そしてその年の4月に「ナントの王令」が出され、ユグノー派の信仰の自由が認められ、礼拝も認められた。ただしその内容は、カトリーヌ・ド・メディシスやアンリ3世が繰り返し出した王令と大きく異なるところはなかった。

ポール・ドラロッシュ「ギーズ公アンリの殺害」コンデ美術館

ギーズ公アンリとロレーヌ枢機卿の暗殺

ジャック・クレマンに暗殺されるアンリ3世

フランソワ・ケスネル「アンリ3世」ポズナン美術館

フランソワ・クルーエ「アランソン公フランソワ」ロンドン ナショナル・ギャラリー

 アンリ3世の弟 後にアンジュ―公

「ナヴァル王アンリ」ポー城美術館   後のアンリ4世

「アンリ4世」

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