「サン・バルテルミーの虐殺」2 ギーズ家VSブルボン家

 1540年代以降、フランスにおいて驚くほどのスピードでカルヴァン派の教えが広がっていった原因は何か?それはカトリック教会への不満の高まり。かつてヨーロッパ一の小麦とワインを算出し、比べるもののない繁栄を誇っていたフランスは、長年にわたるイタリア戦争への出費で破産状態(政府の年収1200万リーヴルに対して、国債はなんと4300万リーヴル)に陥っていた。さらにスペイン経由で新大陸アメリカから金銀が流れ込み、通貨は二分の一に暴落して物価は上がり、インフレ状態が始まった。そのような状態の中で、相変わらず繁栄を楽しんでいたのが、特権で保護されたカトリック教会。聖職者たちは聖職を金で売り、免罪符(贖宥状)を乱発し、税金を不当に引き上げるなど、聖職者にあるまじき手段を用いて民衆から金を搾り取っていた。当時、フランスの富の三分の一が教会に属していた。人々の教会に対する不満が高まるのも当然だ。そして、こうした不満が、カトリック教会の頽廃ぶりを暴き、神の代理人たる教皇の絶対的地位を否定し、フランスに一種の神聖政治を打ち立てようと欲するカルヴァン派の急速な拡大につながっていった。

 さらにカルヴァン派の拡大を家運回復の唯一のチャンスととらえた一族がいた。王族ブルボン家である。ルイ9世(聖王ルイ)の六男クレルモン伯ロベール・ド・フランスに源を発するブルボン家は10世紀に遡る古い王族で、ヴァロワ王家が断絶した時には正当な王家相続人になることが、サリカ法(フランクの一氏族サリ族の慣習法で、フランスの王位継承権の根拠)で決められていた。フランソワ1世の時代には王家の安泰を脅かすほどの勢力を誇ったが、「ブルボン大元帥事件」(イタリア戦争で、ブルボン大元帥が皇帝カール5世側に寝返った結果、パヴィアの戦いでフランソワ一世が敗れ、皇帝の捕虜になった)で国王の不興を買って以来、没落の一途をたどっていた。そんなブルボン家の当主ナヴァル王アントワーヌはユグノー(カルヴァン派)の長に祭り上げられ、ユグノーのデモに加わり、ダヴィデの『詩篇』(『旧約聖書』)を高らかに歌った。陽の当たらぬ場所に置かれた王族の不満が、迫害に耐えかねたユグノーの怒りと一つになる。

 カトリック側で権勢を誇っていたのはギーズ一門。ギーズ一族はルイ9世の流れを汲むカロリング王朝につながる古い家柄。「大将軍」(グラン・キャピテーヌ)と呼ばれフランスの軍隊を一手に握る兄ギーズ公と王国中のカトリック界を牛耳る弟のロレーヌ枢機卿の兄弟が王権を掌握していたが、それは国王フランソワ2世をすっかり尻の下に敷いてしまった王妃メアリー・ステュアート(フランス王妃であるだけでなく、スコットランド女王であり、イングランド王位継承権も持っていた)の叔父(メアリーの母マリー・ド・ギーズはギーズ兄弟の姉)だったからだ。

 このギーズ兄弟のもとで、異端弾圧は日増しに苛烈さを増してゆく。フランソワ2世が即位してからその年の終わりにかけて、パリだけで14人のユグノーが死刑になった。パリ高等法院の評議員であるアンヌ・ド・ブールは、異教徒の迫害を堂々と非難したために火刑に処せられた。当然、ブルボン家も黙ってはいない。1559年秋、ユグノー戦争の前触れともいえる「アンボワーズの陰謀」が画策された。アンボワーズ城に滞在するフランソワ2世を拉致し、ギーズ一党を捕虜にしてクーデターを起こそうという計画。しかし陰謀は翌1560年3月に発覚した。怒りと恐怖にかられたギーズ兄弟の復讐はすさまじいものだった。パリやその周辺のあらゆる地域でユグノーがギーズ派の役人の手に落ちて乱暴な略式裁判の犠牲になった。今後の見せしめとして、兄弟の提案で3月30日、アンボワーズ城で57人のユグノー貴族の公開処刑が行われた。桟敷席には、中央に国王夫妻、国王の右隣にはカトリーヌ、その右にはロレーヌ枢機卿、王妃の左隣にはコンデ公と第二王子シャルル(この時10歳。この年の12月、フランス国王となる)が座っていた。それぞれが身につけていたのは、祭りの時に着る最上の服だった。

 このときから、カトリーヌに対する中傷ののろしが上がる。多数の仲間を処刑で失ったユグノーの憎しみが彼女に、国王の母である彼女一人に、ほとんど集中的に浴びせられる。実際のところ、カトリーヌはユグノーの問題に対してどのように対処していたのか?

「アンボワーズの陰謀」を起こした者たちの処刑

「ギーズ公フランソワ」フランス国立図書館

フランソワ・クルーエ「ロレーヌ枢機卿シャルル」

フランソワ・クルーエ「メアリー・ステュアート」ロイヤル・コレクション

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