「サン・バルテルミーの虐殺」3 マキャヴェリスト・カトリーヌ①

 カトリーヌはユグノーたちと和解することを心から望んでいた。彼女が恐れていたのは、王権に対する犯行であり、単に「異端」であるだけのユグノーに関しては、彼女はいささかの憎悪の念も抱いていなかった。「アンボワーズ事件」の直前に開かれた緊急議会でもこんな発言をして人々の度肝を抜いた。

  「国王の地位を脅かそうとする暴徒と、ただの異教徒とを区別することです」

 それまで、「異教徒」とは「暴徒」の同義語でしかなかった。カトリーヌは続ける。

「過ちを犯した者には悔い改めるチャンスを与えるべきです。始まったばかりの御代(フランソワ2世の治世)を、国民の血で汚したくはありません。この際必要なのは寛容と慈悲の心ではないでしょうか。」

 カトリーヌの発案で大急ぎで新たな勅令(「アンボワーズ勅令」)が発布される。その内容はこうだ。

  ・異端を理由に捕らえられた者は、説教師をのぞいて全員釈放されること

  ・今後新教徒は公の場をのぞいては、礼拝を行うことが許可されること

 しかし、彼女の努力も遅すぎ「アンボワーズ事件」は起きてしまった。そして手を打たなければ、「アンボワーズ勅令」の発案者カトリーヌに異端に好意的だとの疑いがかかるのは必至。彼女は自分の立場を守るため、ユグノーを一時的に敵に回すことを決意する。ギーズ公の怒りに声を合わせ、ユグノーによる陰謀、叛逆が二度と起こらないようにするためにも処刑はできる限り派手に行わなければならないと主張する。しかし、ギーズ一族をいつまでも勝利感に酔わせておく気などさらさらなかった。今度のことでユグノーを敵に回す気もなかった。できるだけ早くたづなをあやつり、ギーズ家とブルボン家を互角の位置に戻さねばならないと考えていた。

 「アンボワーズ事件」以来、世情は不穏な空気を醸していた。カトリック側の弾圧にユグノーのテロリズムが報復する。モンペリエでは60の教会と礼拝堂を略奪、1万2千のカトリック教徒が虐殺される。リヨンではローヌ川に、トゥールではロワール川に、聖遺骨が次々と投げ捨てられた。後にユグノーの本拠地になるオルレアンでは、ジャンヌ・ダルクの像が打ち壊されて、ユグノーが町を征服した。ナヴァル王国ベアルンでは、アントワーヌの妻のジャンヌ・ダルブレ(後のアンリ4世の母)がカトリックを全面的に禁止して、新教(プロテスタント)を義務とした。早急に何かの処置が施されねばならない。カトリーヌは、プロテスタントとカトリック双方から代表者を招いてフォンテーヌブロー城の彼女の部屋で諮問会議を開催する。そして、1560年12月10日にオルレアンで全国三部会を開くことが決定し、それまでの間ユグノーに関する裁判はすべて見送られることになった。

 しかしカトリーヌの喜びも長くは続かない。ギーズ公の手でコンデ公の一味のものが捕まり、その荷物の中から新たな陰謀の企てを暗示するコンデ公宛の手紙が多数見つかったのだ。その企てはこうだった。まず、ポワチエ、トゥール、オルレアン、そしてリヨンを侵略して、その足で一気に宮廷に攻め上ること。ギーズ兄弟を暗殺して国王を奪い取って、ブルボン一族が一手に政権を握ること。

 ギーズ兄弟は、これを機にブルボン一族の徹底的な追放を図る。12月にオルレアンで開かれる全国三部会を口実にナヴァル王とコンデ公をおびきよせ、王位を脅かそうとしたという嫌疑で、一気に逮捕にまで持ち込む。コンデ公は激しく否認したにもかかわらず、陰謀と反乱を企てたとされ、有罪とされる。裁判官たちは、ギーズ兄弟から前もって死刑判決を申し渡されていたのだ。しかし、すぐさま死刑判決は出されなかった。できる限り判決を伸ばすようカトリーヌが手をまわしていたからだ。それでもギーズ枢機卿が彼に忠誠を誓っている裁判官を招集し、彼らによってコンデ公への死刑が宣告された。処刑が行われるのは、12月10日、三部会開催の当日である。しかし、処刑は行われなかった。国王フランソワ2世が12月5日、17歳でその短い生涯を閉じたからだ。フランソワの死はどれほど大きな意味を持っていたか。

ピエール・デュピュイ「フランソワ2世の死」グロロ邸 オルレアン

フランソワ2世と王妃メアリー・ステュアート

「フランソワ2世」

コンデ公ルイ ユグノー側の中心人物 初代コンデ公

エアハルト・シェーン「聖像破壊」1530年

0コメント

  • 1000 / 1000