「サン・バルテルミーの虐殺」1 カルヴァン派
「イタリア戦争」は、「百年戦争」による荒廃からようやく立ち直ったフランス王シャルル8世【在位:1483-98】がイタリア支配の夢に取りつかれ、1494年、スペインのアラゴン王が占領しているナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに出兵したのが始まりである。1516年、フランソワ1世が教皇やスイスと「ノワイヨンの和議」を結んでいったん休戦するも、神聖ローマ皇帝にカール5世が就任すると、西欧キリスト教世界の盟主となる野望を抱いたため、1521年からイタリア戦争は再開される。戦況は一進一退の末、ついにフランス、ハプスブルク家の双方が財政的に力尽き、1559年、「カトー・カンブレジ条約」を結んで終結した。フランス、ハプスブルク家の中世帝国の夢は共に挫折したわけである。
イタリア戦争は、ヨーロッパ地域世界の海外進出と並行して進行した。コロンブスの四次の航海(1492年~1502年)、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路を開拓とカリカット到達(1498年)、コルテスのメキシコ(アステカ王国)制服、ピサロのインカ帝国制服(1528年~33年)、ポルトガル人の種子島漂着(1543年)など。実はイタリア戦争と並行して進行した大きな出来事がもうひとつある。「宗教改革」である。
16世紀初頭、神聖ローマ帝国内のザクセンでマルチン・ルターがローマ・カトリック教会を堕落していると非難し、教会のあるべき姿を提示した。これがローマ教皇によるルターの破門、ルター派教会の分離独立と続く、「宗教改革」の始まりである。そしてルター派プロテスタントの改革運動は神聖ローマ帝国の枠を超えて東ヨーロッパ、北ヨーロッパへと波及する。やがてフランスにも、ルターの教えに帰依する人々が表れる。その一人が、ジャン・カルヴァン。カルヴァンは国王フランソワ1世による弾圧から逃れるため、スイスのジュネーヴに居を定め、そこで宗教改革に着手する。こうして創設されたカルヴァン派の教会は「改革派教会」と呼ばれ、フランスの宗教改革の担い手となっていく。こうした動きに、フランス国家はどう対処したか?
1547年に即位したアンリ2世は、父フランソワ1世以上に厳しい態度で臨み、ルター派だろうとカルヴァン派だろうとプロテスタントが国内で活動することを一切禁じた。さらにパリ高等法院内に異端取り締まりのために火刑裁判所も設けた。法律を学んだカルヴァンの教えはルターのそれより明解。1540年代にカルヴァン派の教えはフランス全国に広がり始め、50年代後半から60年代初めにかけて確固とした全国組織が形成される。1559年にはパリで第1回全国宗務会議が開催され、カルヴァン派の代表が一堂に会した。1561年には、2150もの改革派の教会ないし集団が全国に存在していて(1555年以前には改革派の教会は一つも存在していなかった。その驚くべき速さでの教会設立は、カルヴァンによる布教の努力に大きく負っている)、プロテスタントの人口は200万人におよんだ(その後、弾圧を避けて国外に出るものなどがあり宗教戦争の時期に急速に減少し、1598年には125万人、17世紀にはさらに減少を続け1681年には73万人と推定されている)。
また第1回全国宗務会議の頃には、開明的であったナヴァール王妃マルグリット(フランソワ1世の姉)の影響を受けていた王族や高級貴族のなかに信徒を獲得していた。母マルグリットの感化を受けたジャンヌ・ダルブレ、その夫ナヴァール王アントワーヌ・ド・ブルボン、アントワーヌの弟コンデ公ルイ、それにガスパール・ド・コリニー提督などである。プロテスタント(フランスでは「ユグノー」と呼ばれる)には都市手工業者をはじめ、あらゆる社会層がふくまれたが、50年代後半から王族を含む貴族が加わり始めると、「家の子郎党」の中小貴族をかかえた大貴族間の宮廷顕職をめぐる争いが宗教対立と結合したため、改革運動は軍事化の様相を帯び始める。
ルター(左)とカルヴァン(右)が描かれたステンドグラス ヴィースロッホの教会
ティツィアーノ「ジャン・カルヴァン」
ジャン・クルーエ「ナヴァール王妃マルグリット」リヴァプール ウォーカー・アート・ギャラリー
「ジャンヌ・ダルブレ」フランス国立図書館
フランソワ・クルーエ「アントワーヌ・ド・ブルボン」ポー城
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