「フランスの宮廷と公式愛妾」2 アニェス・ソレル(2)シャルル7世の生い立ち②

 父親が精神異常であっても母親が子に対して愛情深ければまだ救いはある。シャルル7世の母親は、イザボー・ド・バヴィエール(フランス語: Isabeau de Bavière)。ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公の長女(ドイツ名でエリーザベト・フォン・バイエルン:Elisabeth von Bayern)だった。14歳でシャルル6世(当時16歳)と結婚。12人の子供をもうけた。夫が発狂した1392年以降も1407年までに8人の子供を出産している。これだけ見ると、イザボーは後継者を残すという王妃としての務めを忠実に果たした女性と映る。しかし、イザボーは反対派からは「淫乱王妃」と呼ばれ、こんな言葉が後に流布された王妃だった。

      「フランスは女によって破滅し、娘によって救われた」

 この「女」がイザボーで、「娘」はジャンヌ・ダルク。イザボーはとにかく結婚後もフランスになじめなかった。歴史家たちから「外国からフランスに嫁入りした多くの王妃の中で、イザボーだけが生涯外国人のままだった」と書かれている。あのマリー・アントワネットも当初は宮廷になじめず、賭け事に熱中したり、お忍びでパリの舞踏会に出かけたりしていたが、結婚7年目にして子供を授かってからは愛情深い母親になっていった。しかし、イザボーは違った。結婚7年目の21歳の時に夫が発狂し、さらに翌年に夫は記憶をすっかり失ってしまったのだ。自分が結婚して子供がいることも国王であることもわからなくなる。イザボーが優しい言葉をかけても「この女はいったい誰なのだ?見つめてばかりいるが・・・」と言い出す始末。こんな夫を持ったイザボーには同情の余地がないわけではないが、それを考慮してもひどすぎる。最初に愛人を持ったのは結婚の翌年、つまりまだ15歳で夫も発狂する以前のこと。自分の出世のために甘い言葉を捧げてくる貴族だけでなく、夫の叔父も弟も愛人リストに載っていた。イザボーは夫シャルル6世が暮らす「サン・ポール館」(オテル・サン・ポール Hotel Saint-Pol[Paul] マレ地区の「ヴィラージュ・サン・ポール」界隈にあった)に時々顔を出し、それ以外は、その近くに買った「バルベット館」(オテル・バルベット Hotel Barbette ヴィエイユ・デュ・タンプル通りにあった)で愛人を迎えるという生活が続いていた。

 父親は精神を病み、いつ発作が起きるかわからない。母親は愛人との密会と、国の金をごまかして実家のヴィッテルスバッハ家に送ったり、将来のために教会に預けたりと、子供そっちのけで忙しい。こんな中で成長したシャルルは、両親の温かい愛など少しも知らずに育った。さらに、彼が国王シャルル6世の子供だと信じていたものなど誰もいなかった。彼が生まれたのは1403年2月22日。国王が発狂し、記憶喪失に陥ってから10年がたっていた。イザボーの日頃の行動から、不貞のこの疑いが強かったのも当然。それでも大きな問題にならなかったのは、国王と王妃の間にはすでにルイ、ジャンと名付けられた二人の王子がいたからだ。シャルルが国王になることはないだろうと誰もが思っていたからだ。

 ところが、シャルルの二人の兄は王位に就くこともなく次々に死んでしまう。シャルルは1417年4月4日、14歳でフランス王太子(次期国王)になる。しかし当時のフランスは英仏百年戦争の真っただ中。イギリスは、1413年にヘンリー5世が即位すると、領土拡大の野望に燃える彼はフランス国王の座を強く要求し、軍隊を送り、着々とフランスへの侵略を進めていたのだ。そんな状況の中、フランス国内は内戦状態に近かった。ブルゴーニュ派とアルマニャック派(オルレアン派)の対立だ。精神疾患を抱え、記憶も喪失していたシャルル6世には当然後見役として摂政が置かれた。それが国王の従兄弟にあたるブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(ジャン無畏公)。畏れ知らずの彼は、摂政権を巡って対立していた国王の弟オルレアン公ルイを暗殺。さらに多情な王妃イザボーを愛人にしたあげく、父王の代わりにフランスを代表する立場にある王太子シャルルを、不貞の子呼ばわりして蔑んでいた。このジャン・サン・プールと対立したのが、暗殺されたオルレアン公ルイの息子シャルル。彼は南フランスの有力な領主アルマニャック伯爵の娘ボンヌを妻に迎え、そのためオルレアン派はアルマニャック派とも呼ばれていた。シャルル王太子の味方をしたのがこのアルマニャック派だった。この両派の対立の隙につけ込むかのようにフランスに攻め入り、領土をどんどん奪っていったのがイギリス。イギリスに対抗するため、ブルゴーニュ派とアルマニャック派は対立している場合ではなかった。

「イザボー・ド・バヴィエール」 「淫乱王妃」のイメージには程遠い

「イザボー・ド・バヴィエール」

「ヘンリー6世」ナショナル・ポートレート・ギャラリー

「ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール」ルーヴル美術館

オルレアン公ルイの暗殺

「ジャン・サン・プールの塔」 ジャン・サン・プールのパリの居城だった

 20 rue Etienne Marcel

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