「フランスの宮廷と公式愛妾」3 アニェス・ソレル(3)ジャンヌ・ダルク登場

 イギリスに対抗するためブルゴーニュ派とアルマニャック派は協調を試みる。1419年9月10日、王太子シャルルとジャン・サン・プールはモントローで和解交渉を行うが、王太子の支持者によりジャン・サン・プールは暗殺されてしまう。事件の詳しい内容は現在も分かっておらず、アルマニャック派の計画的な犯行だったのか、小競り合いから殺人へと至ったのか諸説ありはっきりしない。いずれにせよ、この事件をきっかけに愛人を失ったイザボーと父を失ったフィリップ・ル・ボンは直ちにイギリス側につく。そして、何が何でもシャルル王太子を王座につけないという決意を固める。喜んだのはイギリスだ。フランス王妃とブルゴーニュ公という強力な味方を得たからだ。イザボーはさらにとんでもない提案をする。イギリス国王ヘンリー5世に、自分の娘カトリーヌを嫁がせようというのだ。さらに、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインしたのだ。ヘンリー5世は喜んでフランス王女カトリーヌを妃として迎える。それから2年後、イギリス国王ヘンリー5世、そしてフランス国王シャルル6世が相次いで世を去る。その結果、ヘンリー5世とカトリーヌの間に生まれた1歳にもなっていない息子が後を継ぎ(ヘンリー6世)、フランス国王の座も手に入れた。

 王太子シャルルはどうなったか?本来ならばフランス国王の座に就くべきであったのに、あまりに実母イザボーに憎まれた(なぜそこまで憎んだか。シャルルが、ジャン・サン・プールと敵対していた王弟オルレアン公ルイとの不義の子だったからのように思う。)ため、フランス中部のブルージュ界隈に小さな領土をもつ「ブルージュの王」と呼ばれるようになった。しかもイギリス・ブルゴーニュ派の強力な武力の前に、王太子・アルマニャック派はどんどん追い詰められ領土は減る一方。残る重要な地点はロワール地方のオルレアンのみになる。ここはアルマニャック派の拠点。だからここを失うことは王太子の敗北を意味する。しかしオルレアン派すでにイギリス軍に包囲されていた。王太子シャルルはロワール河畔のシノン城で、いかにしてオルレアンを防衛するかに頭を悩ませていた。舞台は整った。いよいよジャンヌ・ダルクの登場である。

 1429年3月上旬、ジャンヌは王太子のいるシノン城に現れた。この時わずか17歳。王太子に会わなければならないと繰り返すその娘を問い詰めると、天命を受けたのでそれを実行するために来たのです、と真剣な顔で答えた。ジャンヌが生まれたのはフランス東部の小村ドンレミ。周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。ジャンヌは、幼いころから教会にも熱心に通い、野原にいるときでも、鐘が鳴るのを聞くと、ひざまずくような信仰篤き少女だった。そして13歳の時に初めて「声」を聴く。

「フランス国王を救いに行け。オルレアンの包囲を解くのだ。」

 ヴォークルールで守備隊隊長のボードリクール伯からシノンの仮王宮を訪れる許可を得たジャンヌは、男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながら600㎞離れたシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。しかし「イギリス軍をフランスから追い出し、窮地に陥っている王太子様を救い、ランスでフランス国王の座につけるべしというのが私が受けた天命なのです」といきなり言われてもシャルルも半信半疑。それでも、彼女の生まれ故郷ドンレミが熱心な王太子派だということもわかり面会することに。シャルルはジャンヌの能力を試すために、王太子の身分を隠し多数の側近の中に混じっていた。しかしジャンヌは直ちに王太子を見破る。シャルルはジャンヌを全面的に信用し、白い甲冑と白い旗を授け、王太子軍を任せることにする。そしてジャンヌに率いられ戦闘心を燃え上がらせた王太子軍は、5月8日、ついにオルレアンからイギリス軍を追い出すことに成功。オルレアンは解放されたのである。

シャルル7世と謁見するジャンヌ

ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「王太子に会うジャンヌ」

ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「神の声を聞くジャンヌ」

シノン城

ジュール・ルネプヴ「オルレアン包囲戦でのるジャンヌ」パンテオン

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