「フランスの宮廷と公式愛妾」1 アニェス・ソレル(1)シャルル7世の生い立ち①

 シャルル7世から浮かぶイメージは二つ。ひとつは、あのジャンヌ・ダルクによってランスで戴冠式を行いフランス国王になったが、結局ジャンヌを見捨て火刑に至らせてしまったこと。もうひとつは、1453年カレー以外の全土からイギリス軍を駆逐して1339年に始まった英仏百年戦争を終結させ(フランス最初の公式愛妾アニェス・ソレルに尻を叩かれてのことだったが)「勝利王」と呼ばれたこと。共通しているのは、強い女性に引っ張られて事を成し遂げた、どこか気弱で優柔不断なイメージ。事実、無気力で弱日々しい小男だったと言われている。代表的な肖像画はジャン・フーケが描いたもの。大きな鼻と疑い深い目つき。まるでパッとしない。それもそのはず。なんとも不幸な生い立ちのなせる業なのだ。

 父はシャルル6世。「狂気王」(le Fol)と呼ばれた。とんでもない呼ばれ方。しかし、事実精神異常だった。シャルル6世に初めて狂気の兆候が現れたのは1392年8月4日。この年、友人であり助言者でもあったオリヴィエ・ド・クリッソンが暗殺されかけたのを知ったシャルルは、実行犯のピエール・ド・クランが逃げ込んだブルターニュ公国が身柄引き渡しの要求を拒否したため、軍勢を引き連れてブルターニュへ向かう。8月のある暑い日の朝、シャルル6世の一行はル・マン近郊の森を通りかかった。その時、ぼろを纏った1人の狂人が現れ、裸足で王の馬に駆け寄って手綱を掴むと、「高貴なる王よ、これ以上進んではならない……戻りなさい、あなたは裏切りにあっている」などとわめいた。護衛たちはこの男を追い払ったが、逮捕することはなかった。男はその後30分にわたって一行に付きまとい、繰り返しわめき続けた。正午に一行が森を抜けた直後のこと。小姓の1人が誤って手に持っていた王の槍を落とし、それが別の小姓が運んでいた鋼のヘルメットに当たって大きな音をたてた。その音を聞いたシャルルは驚くべき行動に出る。身震いすると剣を抜き、「裏切り者に突撃せよ、奴らは私を敵に引き渡すつもりだ」などと叫ぶと、馬に拍車をかけて自軍の騎士に襲いかかったのだ。この信じられないような出来事は1時間も続き、4人もの犠牲者が出た。この事件の後、シャルル6世はその生涯にわたって精神異常の発作を繰り返すことになる。

 こんな親を持った子はどれほど不安を抱えながら生きることになるのだろう。芥川龍之介のことが浮かぶ。彼の実母ふくは、龍之介が生まれてまもなく発狂。そのため龍之介は養父母と伯母によって養育される。彼は死の前年、亡き母を回想し次のように記している。

「僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻にし、いつも芝の実家にたった一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも生気のない灰色をしている。僕はいつか西廂記(せいそうき)を読み、土口気泥臭味の語に出合った時に忽ち僕の母の顔を、――痩せ細った横顔を思い出した。

 こう云う僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覚えている。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使うばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすってくれる。唯それ等の画中の人物はいずれも狐の顔をしていた」(『点鬼簿』)

晩年の芥川は神経衰弱となり、幻聴、幻視に悩まされたという。龍之介はそんな自らの境遇を亡き母に重ね合わせたようだ。彼は息子たちに宛てた遺書の中でこう警告している。

「汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。」

(ジャン・フーケ「シャルル7世」ルーヴル美術館)

アンリ・ラマン「シャルル7世」ヴェルサイユ宮殿

ル・マンの近くの森で狂気に襲われ味方の騎士を襲撃するシャルル6世(フロワサール『年代記』の装飾写本)

フランソワ=オーギュスト・ ビアール「シャルル6世の狂気と悪魔祓い」

芥川龍之介

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