夏目漱石と20世紀初頭のロンドン14 カール・マルクス

 漱石が日英同盟締結に浮かれ騒ぐ同胞を「あたかも貧人が富家と縁組を取結びたるうれしさの余り鐘太鼓を叩きて村中をかけ廻るやうなもの」と揶揄したは、1902年3月15日の義父中根重一宛書簡の中でだが、その中でこんなことも書いている。

「欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに其因致候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめもしくは無教育に終らしめ、かへつて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと存候。・・・カール・マルクスの所論の如きは単に純粋の理屈としても欠点有之べくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。」

 漱石が、マルクスの『資本論』の英語版を所持していたことは広く知られている。荒正人のように、所持しただけでなく、読んだのだと言う人もいる。しかし、漱石文庫の英語版『資本論』にはどこにも下線、書き込みの跡がないところを見ると(漱石は、読めばたいていは下線を引いたり、書き込みをした)、おそらく読まなかったのだろう。しかし、社会主義思想に関心を持っていたことは確かなようだ。これは帰国後しばらくしてからのこと(明治39年【1906】8月)だが、市電料金の値上げに対して、東京市民の反対デモ(日本社会主義者の最初の示威運動とされる)が行われたことがあった。そのとき、都新聞に漱石がデモに参加したと報ぜられ、その記事の切り抜きを送ってくれた深田算に出した礼状で次のように書き送っている。

「電車の値上には行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故堺枯川(堺利彦の号。社会主義者。万朝報社に入社。退社後幸徳秋水と平民社を結成、「平民新聞」を発刊。社会主義思想の普及に努めた。日本共産党の創立にも参加。)氏と同列に加はりと新聞で出ても毫も驚ろく事無之候」  このような漱石のマルクス、社会主義への関心は、2年間のロンドン滞在で見聞きし、体験して実感した貧富の格差が背景にあったようだ。

(『日記』1901年3月14日)

「穢(きたな)い町を通ったら、目暗(めくら)がオルガンを弾いて黒い伊太利(イタリヤ)人がバイオリンを鼓していると、その傍(そば)に四歳ばかりの女の子が真赤な着物を着て真赤な頭巾を蒙(かぶ)って音楽に合せて踊っていた。公園にチューリップの咲くのは奇麗だ。その傍のロハ台に非常に汚苦(むさくる)しい乞食が昼寝をして居る。大変なcontrastだ。」

 また漱石のロンドンでの三度目の引っ越しは家主一家と一緒だった。大家と言っても借家を間貸ししていたのだが、下宿人が漱石だけになってしまったので、環境も交通の便も悪くなるが、家賃の安い家を借りるしかないということで、新興住宅地として開かれつつあったトゥーティングに引っ越すことになったのだ。なぜ漱石も一緒だったのか?彼は、別の下宿を探して移るつもりで、新聞の「下宿人求む」蘭で、めぼしい家を見つけ、手紙を出していた。しかし、その下宿の家賃がべらぼうに高いのと、大家夫妻から「一緒に引っ越してくれ」と懇願されたこと、別に探すのも面倒なこともあって、トゥーティングの新居に移ることになったのだ。そこは、前より一層場末の殺風景な借家。漱石は、二日続けて日記にこう書く。

(『日記』1901年4月25日)

「午後Tootingに移る。聞しに劣るいやな処でいやな家なり。永くいる気にならず。」

(『日記』1901年4月26日)

「朝Tooting Station付近を散歩す。つまらぬ処なり。」

 夜逃げ同然に引っ越す家主姉妹と金がないため行動をともにする自分を重ねる漱石。遠い故国で病魔と闘う友(正岡子規)を慰める手紙(『倫敦消息』)の一節。

「運命の車は容赦なく廻転しつつある。我輩の前及彼等二人の前には如何なる出来事が横わりつつあるか、我等は三人ながら愚な事をして居るかも知れぬ。愚かも知れぬ、又利口かも知れぬ。只我輩の運命が彼等二人の運命漸々接近しつつあるは事実である。」

( 明治39年3月 千駄木の家の書斎の漱石)

(手回しオルガンと大道音楽師 盲人が多かった)

(公園のベンチで眠っている家のない下層階級の人々)

(貧しい人たちの引っ越し風景)

(カール・マルクス 1875年)

(堺利彦)

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