夏目漱石と20世紀初頭のロンドン15 「文明開化」批判①

   「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」 

 これは、明治40年(1907)年1月1日、雑誌『ホトトギス』に掲載された『野分』の有名な一節。『野分』は、堕落する当時の青年たちへの警鐘、理想や道の必要性、金権力へのなどがテーマとなっており、主人公は文学者の白井道也。彼は、大学を出た当初は地方で教師をしていたが、地元の金持ちや権力者に対して遠慮なくその批判をするので煙たがられ、新潟、九州、中国地方と三度も辞職をし、東京に戻ってきた。新潟の学校を辞めた経緯はこう書かれている。

「始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在ある町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上この会社の御蔭で維持されている。町のものに取っては幾個の中学校よりもこの石油会社の方が遥にありがたい。会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。

 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫(みだり)に平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。」


 今度は教師になる心づもりもなく物書きを始めるが、妻はそのことをよく思っておらず、普通に働いてほしいと思っている。先の一節は、妻に反対されながら出かけた演説会での白井の話の中で語られる。


「英国風を鼓吹して憚(はばか)らぬものがある。気の毒な事である。己に理想のないのを明かに暴露している。日本の青年は滔々として堕落するにもかかわらず、いまだここまでは堕落せんと思う。すべての理想は自己の魂である。うちより出でねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。奴隷をもって甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何らの理想が脳裏に醗酵し得る道理があろう。 「諸君。理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。付焼刃は何にもならない」

 道也先生はひやかされるなら、ひやかして見ろと云わぬばかりに片手の拳骨げんこつをテーブルの上に乗せて、立っている。汚ない黒木綿の羽織に、べんべらの袴は最前ほどに目立たぬ。風の音がごうと鳴る。

「理想のあるものは歩くべき道を知っている。大なる理想のあるものは大なる道をあるく。迷子とは違う。どうあってもこの道をあるかねばやまぬ。迷いたくても迷えんのである。魂がこちらこちらと教えるからである。


 漱石には、危機感があった。それは当時の日本の盲目的な西洋追従、日本社会全体が圧倒的な優位にあった西洋文明一辺倒になっていくことへの危機感である。そして、そのような風潮への対抗原理、「西洋」という「他人」本位への対立概念として、「自己本位」を掲げたのである。

(岡本一平『漱石先生』)

 (岡本一平『漱石八態』 朝日新聞社初期時代の漱石)

(明治40年(1907)5月、朝日新聞入社時の漱石)

(夏目漱石「二百十日・野分」新潮文庫)

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