夏目漱石と20世紀初頭のロンドン8 不愉快なロンドン②まなざし
漱石の身長は160センチにも足りず、平均的な日本人よりも低め。そんな漱石が、彼より平均で十数センチ以上は高いイギリス人男性の群衆の中にいると、押しつぶされてしまいそうな圧迫感を感じたことだろう。
「ステッキでも振り回してその辺を散歩する・・・。向へ出てみると逢う奴も逢う奴も皆んな嫌に背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背いに税をかけたら少しは倹約した小さな動物が出来るだろうなどと考えるが、それはいわゆる負惜しみの減らず口と云う奴で、公平な処が向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持がする。向うから人間並外れた低い奴が来た。占(しめ)たと思ってすれ違ってみると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な黄色をした一寸法師が来たなと思うと、これ。すなわち乃公(だいこう。尊大に、じぶんをさしていう語。我が輩)自身の姿が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。」(『倫敦消息』初めは闘病中の友人、正岡子規を慰めるために書かれ、のちに雑誌「ホトトギス」【明治34年5月号】に掲載された書簡)
イギリス人のまなざしが写し出したのは、己の背の低さだけではない。自分が黄色人種であることも。
「日本に居る内はかくまで黄色とは思はざりしが当地にきて見ると自ら己の黄色なるに愛想をつかし申候」(1901年1月22日 妻鏡子宛書簡)
「我々黄色人――黄色人とはうまくつけたものだ。全く黄色い。日本に居るときは余り白い方ではないがまず一通りの人間色といふに色に近いと心得ていたが、この国では遂に人-間-を-去-る-三-舎-色と言はざるを得ないと悟った―その黄色人種がポクポク人込の中を歩行(ある)いたり芝居や興行物などを見に行かれるのである。然し時々は我輩に聞こえぬように我輩の国元を気にして評する奴がある。この間ある処の店に立って見ていたら後ろから二人の女が来て“least poor Chinese”と評して行った。least poorとは物 ぐさい形容詞だ。ある公園で男女二人連れがあれは支那人だいや日本人だと争っていたのを聞いたことがある。二三日前去る所へ呼ばれてシルクハットにフロックで出かけたら、向ふから来た二人の職工みた様な者が a handsome jap. といった。有難いんだか失敬なんだか分からない。」(『倫敦消息』)
イギリス人社会のなかにあって漱石が精神を委縮させられた理由はそれだけではなかった。これはロンドンに到着する前に、パリから妻鏡子に宛てた手紙の中の一節だ。
「当地に来て観れば男女とも色白く服装も立派にて、日本人はなるほど黄色に観え候。女などはくだらぬ下女の如き者でもなかなか別嬪(べっぴん)有之候。小生如きあばた面は一人も無之候。」
漱石の顔には相当はっきりあばたが残っていた(写真からはわからないのは修正されているから)。子どもの時、種痘を打ったのが不幸にも顔に移転し、痒くて顔中掻きむしった結果、あばた顔になったという。『吾輩は猫である』ではこんな風に書かれ、深刻さは伝わってこないが。
「主人は痘痕面(あばたづら)である。御維新前はあばたも大分流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔は聊(いささ)か時候遅れの感がある。・・・現今地球上にあばた面を有して生息して居る人間は何人位あるか知らんが、我輩が交際の区域内に於て打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。而してその一人が即ち主人である。甚だ気の毒である」
しかし、この描写とは違って漱石にとっての疱瘡は実に深刻な体験だった。
「彼は其所(養子に出された家)で疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したとかいう話であった。彼は暗い連子(「連子窓」細長い木材を連続的に縦、または横に連ねた窓)のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻きむしって 泣き叫んだ。」(『道草』)
顔に刻印されたあばたは、生涯漱石を苦しみ続けた。それは心のトラウマと呼んでいいほどだった。それでも日本にいるときはあばたを見られることには慣れていた。日本では見て見ぬふりを装うという形で見られていたからだ。また、日本では東京帝国大学文科大学英文科卒業、地方の名門熊本第五高等学校教授という肩書があばたの劣等生を補って余りあった。しかしロンドンは違った。そこは、漱石の精神的拠り所となっていた、社会的記号的優越性がまったく通用しない世界だったからだ。
(地下鉄の車内風景 )
(チャリング・クロスの賑わい)古本屋が多く、漱石はしばしば足を運んだ
(高慢そうなイギリス人の様子)
漱石の眼には、イギリス人は一般的に高慢な表情をしているように映った
(1912年9月13日(明治天皇の大喪の礼の日)の夏目漱石)
修正されているので、あばたは写っていない
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