夏目漱石と20世紀初頭のロンドン7 不愉快なロンドン①霧
自分自身や自分が生きている世界を対象化し、認識するには自分とは異なる他者、文化、世界と触れ合う必要があるだろう。そのような体験を通して、自分や自分が生きる世界を相対化する必要があるだろう。自分の個性を発見するには、兄弟、友人など異なる個性の存在は不可欠だ。自分か生きる生活世界の長所、短所は、異なる生活世界と比較しなければ明確にはならないだろう。海外旅行、海外生活という海外体験が自己理解、自己把握の上で重要なのはこの点においてであろう。そして、方法によっては短期間の海外滞在であろうと、自己理解を深められるように思う。漱石のロンドン留学生活も、自己発見の2年間だったように思う。
漱石のイギリス体験は、気候の悪さへの不快感から始まる。ロンドン到着1ヶ月後の11月20日、友人に宛てた手紙にこう書いた。
「倫敦の天気の悪いには閉口したよ」
また12月26日の妻鏡子宛書簡でもこう書いている。
「天気のわるきには閉口、晴天は着後数えるほどしか無之、しかも日本晴といふやうな透きとほるやうな空は到底見ること困難に候。もし霧起るとあれば日中にても暗夜同然ガスをつけ用を足し候。不愉快この上もなく候。」
さらに日記にもこう記した。
「倫敦の町にて霧ある日、太陽を見よ。黒赤くして血の如し。鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽はこの地にあらずば見る能わざらん。」(1901年1月3日)
「濃霧、春夜の朧月の如し。市内皆燭照して事務をとる。」(1901年1月12日)
当時の霧は、ロンドンの市街の煙突から吐き出される暖炉の黒煙と混じり合って、一層不快きわまる代物だった。
「倫敦の町を散歩して試みに痰を吐きて見よ。真黒なる塊りの出るに驚くべし。何百万の市民はこの煤烟(ばいえん)とこの塵埃(じんあい)を吸収して毎日彼らの肺臓を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ痰をするときは気のひけるほど気味悪きなり。」(1901年1月4日 日記)
「雪やむ。なお曇天なり。石炭の灰の雪を掩(おお)うを見る。阿蘇山下の灰の如し。」(1901年1月9日 日記)
とにかく都市生活は不衛生だった。街路は泥と馬などの動物の糞で厚くおおわれており、霧や煙、油煙の息苦しいスモッグが垂れこめていた。家庭で燃やす石炭の煤煙や工場から出る有毒なガスは、呼吸器系の病気と短命の原因になった。ちょっと耳を疑ってしまうが、1851年の時点でリヴァプールの平均寿命は26歳だったと言われる。もちろん漱石が滞在した当時のロンドンは、そこまでひどくはなかったが、漱石が日本の美しい自然に想いをはせたのは当然だろう。
「当地冬の季候極めてあしく霧ふかきときは濛々として月夜よりもくらく不愉快千万に候。早く日本に帰りて光風霽月(こうふうせいげつ。心がさっぱりと澄み切ってわだかまりがなく、さわやかなことの形容)と青天白日を見たく候。」(1901年1月22日 妻鏡子宛書簡)
漱石は、近代化の最先端を行くイギリスとはるかに遅れた日本を比較しながら、日本についてだけでなく近代化の功罪にも想いをはせたのではないか。
(向上の煙突から吐き出される煤煙と有毒ガス ヴィクトリア朝)
(下水とテムズ川の汚染に囲まれた死 1858年『パンチ』風刺漫画)
(霧の都ロンドン)
(ひどいスモッグにマスクをするロンドンの人々)
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