「太陽王ルイ14世」⑥親政開始とフーケ

  1661年3月9日深夜2時、マザランは息をひきとる。夜が明けると、ルイ14世は国王諮問会議を招集。

「マザランが他界すると、大臣たちはこれから先、どなたに相談すべきか尋ねた。王は『朕だ』と答えた」(ミシュレ)

 翌日、ルイは親政開始を宣言。しかし、宮廷人はこう考えていた。親政と言っても、それは王の権威を大臣たちに見せつけるだけで、実際の仕事は宰相や大臣に任せるだろう、と。ところが、ルイは宰相の仕事ばかりか、大臣の仕事まで全部自分で始めたのだ。この時ルイ14世22歳。それは一時の気まぐれではなかった。王が親政を決意したのは、フロンドの乱の中で生み出された人間不信の心情と、王としての強い使命感によっていたと思われる(一説には、「宰相」を設けることは危険である、とのマザランの助言に従ったとも言われる)。後にルイはスペイン王(フランスはスペイン継承戦争に勝利し、スペインの王位も手に入れた)になる孫への箴言としてこう述べた。

「統治を他人にまかせてはいけない。自分が統治者なのだ。宰相をもってはいけない。自分が決定するのだ。あなたを国王にした神さまが、あなたに必要なことを与えてくださる。」

 確かにルイはマザランから帝王学を授けられ、一人前の国王に仕上げられていた。しかしヨーロッパ一の大国フランスを本当に一人で納められるのか。こんな人々の不安を吹き払う大事件が起きる。財務長官フーケの逮捕である。フーケは国家運営の要である財政を文字通りたった一人で握り、王としても一目置かざるを得ない超実力者だった。1653年から1661年にかけての時期にフランスの国家財政の赤字は目に見えて縮小し、黒字に転じた。人口も順調に増え、フランスは豊かな国になりつつあった、この時期に財政を担当していたのがフーケ。そのフーケをルイ14世は逮捕したのだ。容疑は、財務長官の立場を利用しての公金横領。このことは国王が正義の味方であることを世間に強く印象付けた。  ところで、フーケは派手な散財で同時代人を驚かせていた。とりわけ有名なのは、ヴォー・ル・ヴィコント城の建築。フーケはそれまであった城郭を取り壊し、3つの村をつぶし、そこにル・ヴォー(建築家)、ル・ブラン(画家、内装家)、ル・ノートル(造園家)を雇って金に糸目をつけることなく、いかなる王侯もなしえなかったような壮麗な大邸宅と庭園を造った。そして1661年8月17日、ここを訪れたルイ14世は大饗宴によって迎えられる。ル・ノートルの造った庭園のいたるところから噴水が吹きあがり、夜には花火が打ち上げられ、伝説の名シェフ、フランソワ・ヴァテルのつくった料理が振る舞われ、モリエールの『うるさがた』が上演された。このようなもてなしは、ルイを喜ばせる以上に、その自尊心をいたく傷つけてしまった。ルイも贅沢好きで豪壮華麗な雰囲気を愛した。しかし、それは唯一最高であるべきフランス国王の特性でなければならない。最も優れたものは王が持たなければならないのだ。だから、王族の血を受けていないフーケごとき人物に、王以上のぜいたくと華麗な暮らしが許されてはならないとルイは感じたと思われる。

 ルイ14世は、この大饗宴の19日後の9月5日、フーケの逮捕を命じた。そして、ヴォー・ル・ヴィコント城の建築に携わったル・ヴォー(建築家)、ル・ブラン(画家、内装家)、ル・ノートル(造園家)のトリオはヴェルサイユ宮殿の建設に投入されることになったのである。

 (ヴォー・ル・ヴィコント城)

(ヴォー・ル・ヴィコント城 庭園)

(ヴォー・ル・ヴィコント城 全体)

(エドゥアール・ラクルテル「ニコラ・フーケ」ヴェルサイユ宮殿)

(クロード・ルフェーブル「コルベール」ヴェルサイユ宮殿)

(国務会議を主催するルイ14世)

(ル・ブラン「ルイ14世の肖像」)親政を開始した頃(22歳)のルイ14世

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