「太陽王ルイ14世」⑦ヴェルサイユ宮殿1
ヴェルサイユ宮の造営は親政宣言の年、1661年に始まる。ヴェルサイユは、パリ西南の小村。小さな丘で、その周りは沼地をなし、鷹狩の獲物の多い林が連なっているところで、父王ルイ13世が狩りを楽しんだところである。ルイ13世は狩りの休息のために、そこに小さな別荘を建てた。ただしそれは、「ただの貴族でもひけらかそうとは思わない、貧弱なつくりの別荘」(バソンピエール元帥)。ルイ14世はここに完成までおよそ25年を要した大王宮を建設するのだが、この地はそのためには必ずしも適当なところではなかった。
「あらゆる場所のなかで、もっともさびしく、もっともやせて貧弱な土地、見晴らしも悪く、木立ちもなく水もなく土もない。すべては砂地か沼地で、空気も悪く、何もよいものはない。」
(サン・シモン『回想録』)
ルイは1682年5月6日からヴェルサイユ宮に常住し始めるが、それまでフランス王家の伝統は移動式の宮廷だった。あるときはルーヴル宮、あるときはサン・ジェルマン・アン・レー宮、フォンテーヌブロー宮、シャンボール城などと宮廷が場所を変える。そして国王の赴くところすべてに王家、王族の人々、政府要人、侍従、主治医、料理人、そして愛人までがついていく。フランソワ1世時代のヴェネツィア大使マリノ・ジュスティアーノはこう記している。
「私の任期中、フランスの宮廷は2週間以上同じ場所にはとどまらなかった」
ルイは大王宮を既存の宮殿を改造・美化することで実現しようとは考えなかったのか?実際マザランの後継者コルベールは、ルーヴル宮の改修・美化が望ましいとの意見だった。しかし、ルイはルーヴル宮を嫌った。パリ市中にあり、敵の侵入が容易なうえ宗教戦争の傷跡もなまなましい。そして何と言っても「フロンドの乱」の苦い思い出と重なる。また、シャンボール城はパリから180kmと離れすぎ。ではパリからさほど離れていないサン・ジェルマン・アン・レー宮やフォンテーヌブロー宮はなぜ候補にならなかったのか?サン・ジェルマン・アン・レー宮の創設者はルイ9世(在位1108年-1137年)、フォンテーヌブロー宮の創設者はフランソワ1世(在位1515年-1547年)。それぞれカペー朝、ヴァロワ朝の王なのだ。ルイはブルボン家生え抜きの城をつくりたかった。自己の理念にかなった、ブルボン家の斬新で、豪壮華麗な宮殿を創造することで、国王、ブルボン朝の栄光、偉大さを示そうとしたかったのだ。
ではどのような宮殿にするか?イメージを与えたのは、ルイがその美しさ、豪華さに圧倒されたフーケのヴォー・ル・ヴィコント城。だから、ルイはフーケの城とその庭園の制作者たち(建築家ル・ヴォー、画家、内装家ル・ブラン、造園家ル・ノートル)をそっくりそのまま使って、自らの宮殿を造営しようとしたのだ。
(ルーヴル宮) 現在の ルーヴル美術館
(サン・ジェルマン・アン・レー城)
(フォンテーヌブロー宮)
(シャンボール城)
(フランスの王朝)
(クロード・ルフェーヴル「ルイ14世」ニューオリンズ美術館) 1669年
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