「太陽王ルイ14世」⑤ルイの結婚

  マザランは姪のマリー・マンシーニがルイ14世と結婚することを願わなかったのだろうか。彼女が王妃となれば、彼は外戚関係によって絶大なる権力をふるうことが可能になる。しかし、一時そのような夢を抱いたにせよ、そのような個人的感情はすぐに捨て去る。そこがマザランの並の政治家とは大きく異なるところ。彼は徹底した冷徹な王権主義者。当時のフランスにとって最優先は対スペイン戦争を終結させて講和条約を締結すること。そのためにはルイ14世がスペインの王女マリア・テレサ(フランス式発音ではマリー・テレーズ)と結婚することが不可欠。それでもルイもマリーもあきらめきれない。ルイは母アンヌ・ドートリッシュとマザランの前にひざまずいて二人の結婚を許してくれと訴える。マザランは厳しい口調でこう答えた。

「今私の姪がしていることは、国家への大きな叛逆である以上、監督者としての私の責任からすれば、彼女を支持するより、むしろ打ちすえるのが当然です。」

               (ギー・ブルトン『フランスの歴史をつくった女たち 第4巻』)

 1659年11月7日、フランスとスペインとの講和条約であるピレネー条約が調印され、ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサの結婚が正式に承認された。ところでこの結婚には重要な取り決めがなされていた。「マリー・テレーズは、50万エキュ金貨を持参金とする代わりに、スペインの王位継承権(フランスと違ってスペンでは女性にも王位継承権がある)を放棄する」という条文だ。ここには、マザランの狡猾な計算があった。この時点で、スペインには虚弱で死をまたれているような王子が一人いただけ。いずれ王位継承問題が生じる。また、戦争に負けたスペインに50万エキュ金貨の持参金を用意することは事実上不可能。となるとフランスは、王子が亡くなった時に、持参金の未払いを理由にマリー・テレーズのスペイン王位継承権を主張できる、という計算だ。そして、その後に起きたスペイン継承戦争(1700年~14年)に勝利したフランスはスペインを手に入れるのである。スペイン・ブルボン朝誕生だ。一説では、ルイ14世がマリー・マンシーニとの結婚をあきらめたのは、ピレネー条約の条文を熟読する過程で国家元首としての自覚に目覚め、いずれはスペインを併合する目的で条約にサインしたとも伝えられる。

 こうしてフランスは、ウェストファリア条約(1648年 三十年戦争の講和条約)ではオーストリア・ハプスブルク家からアルザスにたいする領有権を獲得しただけでなく、ピレネー条約では、1640年以降占領下においていたアルトワの大部分を獲得した。マザランは不人気ではあったが、彼の政治的・外交的手腕によってフランスは王国の領土を拡大したのだ。そしてピレネー条約締結から1年4カ月後の1661年3月9日、マザランはその能力を出し尽くしたかのごとく死去。宰相政治は終わり、いよいよルイ14世の親政が幕をあける。

(ルイ14世の結婚)

(ベラスケス「王女マリア・テレサ」ウィーン美術史美術館)

(ジャン・ノクレ「王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ」ヴェルサイユ宮殿)

(ピエール・ミニャール「マザラン」コンデ美術館)

(ピレネー条約によってフランスが新たに獲得した領土)

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