「太陽王ルイ14世」④ルイの初恋

 4歳で国王に即位したルイ14世の治世(1643年~ 1715年)は72年。フランス史上最長であり、ヴォルテール(18世紀の啓蒙主義思想家)はルイ14世の治世を「偉大なる世紀」(「グラン・シエクル 」Grand Siècle)と称えた。ルイが造営したヴェルサイユ宮殿は文芸興隆の舞台として大きな役割を果たし、そこたびたび催された祭典では、演劇、オペラ、コンサート、バレーが上演され後世に多大な影響を与えた。その時代は古典主義がいっせいに花開き実を結んだ「文学の黄金時代」といわれ、ルイがあつく保護した悲劇作家のコルネイユ、ラシーヌ、喜劇作家のモリエールらが、現代に残る不朽の名作を多数生み出した。そして、この「偉大なる世紀」に属するすべてがルイ14世の初恋の相手、一人の文学少女から生まれたと言われる。その少女とはマリー・マンシーニ。本名マリア・マンチーナ。イタリア出身のマザランの妹の娘、つまり姪である。ルイはこの少女からどれほど大きな影響を受けたか?

「彼女は王に向かってオノレ・デュルフェの小説『アストレ』の話をし、他のさまざまな牧歌的恋愛小説についてもコメントを加えた。・・・王は彼女のギリシャ・ローマ的教養や知性、それに控えめな態度を賞賛するようになっていた。」(ブリュシュ『ルイ14世』)

 9歳から14歳の時期をフロンドの乱の無政府状態の中で過ごしたルイは十分な教育を受けてこなかった。そのルイが、マリーと出会って猛烈に読書を始めたのだ。教養ある恋人に嫌われないようにするためにである。

「彼は、フランス語の洗練につとめ、イタリア語を学び始めたばかりではなく、古典的な作家にも情熱を燃やすようになった。これもみな、ラ・ファイエット夫人の言葉を借りれば、この《たぐいまれな知性に恵まれた》娘の影響だったといえるだろう。・・・ルイ14世が後日ヴェルサイユの宮殿を建築する気を起こしたのも、またモリエールを保護したり、ラシーヌの生活の面倒をみたりするようになったのも、もとはといえば、みなマリー・マンシーニの感化によるものである」(ギー・ブルトン「フランスの歴史をつくった女たち 第4巻』」

 特別美人だったわけではない。母后アンヌ・ドートリッシュの侍女モットヴィル夫人などこう酷評している。

「彼女は褐色の髪の色をし、肌は黄ばみ、眼はただ黒々と大きいだけで、何の輝きもなく、むしろ下品な感じだった。口は大きく横に広がっていて、歯並びがきれいだったことを除けば、全体として不細工な顔立ちだったと言っていいだろう」

 ただ、マリーの圧倒的な文学的教養にルイが心惹かれても、激しく恋をするという段階に達するには大きなきっかけとなる出来事が必要だった。当時フランスは対スペイン戦争を継続中。フランスは、優勢に戦いを進めていたが決定的な勝利がなかなか得られない。そこでマザランは思いきった手を使う。「清教徒革命」(1642年~49年)で国王チャールズ1世を斬首して共和政を実現したクロムウェルのイングランドと同盟を結んでスペインと戦うことにしたのだ。英仏軍は大勝利をおさめ、フランスは休戦まであと一歩のところまでスペインを追い詰める。しかし、ここで思わぬアクシデントが発生。ルイ14世が高熱を発し、危篤状態に陥ったのである。高熱が2週間続き(猩紅熱が原因だったとされる)、医者もさじを投げた。だれもが最悪の事態を覚悟し、王の枕元から離れる者が相次ぐ中、ひとりだけ最後まで残って熱心に看病をつづけた少女がいた。それがマリー・マンシーニだった。 

(ジェイコブ・フェルディナンド・フート「マリー・マンシーニ」アムステルダム国立美術館)部分


(フィリップ・ド・シャンパーニュ「マザラン」コンデ美術館 )部分

(ジェイコブ・フェルディナンド・フート「マリー・マンシーニ」ベルリン絵画館)

ルイの初恋の女性。マリー・マンシーニは歴史上のある有名な人物のポーズをとっている。誰か。ヒントは右手に持っている真珠。答えは、クレオパトラ。アントニウスとの豪華晩餐会対決を真似ている。

(ジェイコブ・フェルディナンド・フート「マリー・マンシーニ」アムステルダム国立美術館)

(ジル・ゲラン「フロンドを打ち負かすルイ14世」コンデ美術館)

1654年、パリ市役所中庭に設置 された。踏みつけられる戦士は「フロンド」の象徴。

(ル・ブラン「ルイ14世の肖像」)1661年(22歳)

(シャルル・フィリップ・ラリヴィエ「ダンケルクの戦い」ヴェルサイユ宮殿)

フランス・イングランド連合軍がスペインに勝利

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