「16世紀フランスとカトリーヌ」⑤ 「サン・バルテルミーの虐殺」
1572年4月、ナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚が正式に決まり、結婚式の準備が進められる。この間、宮廷はある重大な外交問題をめぐってもめていた。ネーデルラント独立運動である。これに関して、驚くべき計画が国務会議で提案された。その計画はこうだ。フランスがフランドル(ネーデルラント南部)のプロテスタントの側についてスペインと戦争を起こし、フランドルをフランスの領土にする。さらに、この提案を呑まなければ再びフランスに内戦がおこると脅しにかかった。その人物とは、コリニー提督。ユグノーの最高軍事指導者だが、第三次ユグノー戦争でフランス王家に公然と反乱を起こしたためパリ最高法院から死刑を宣告された。しかし、1570年の「サン・ジェルマンの和議」により宮廷への復帰を許される。そして若い国王シャルル9世の心を完全にとらえてしまう。国王は、コリニーのことを情愛の限りを込めて「我が父(モン・ペール)」と呼んだ。国王はコリニーの提案を目を輝かせて聞き入る。
もちろんカトリーヌは猛反対。スペインとの戦争など無謀。負けたらフランスはスペインの属国になり、勝てばユグノーの天。そうなれば、カトリック側の不満が爆発し、内戦は必至。コリニーの提案は、国務会議で二度にわたり否決される。しかし、コリニーはあきらめない。カトリーヌは考える。ナヴァル王アンリとマルグリットの結婚がユグノーとカトリックの結合を不動のものにしようとしている今、コリニーは敗北が明らかな戦いへフランス全体を引きずり込み、平和をぶちこわそうとしている。どうすべきか。合法的には裁判で死刑を宣告するのがいい。しかし、シャルル9世がコリニーに傾倒している以上、カトリーヌに勝ち目はない。残るは暗殺。実行者は、ギーズ一族。彼らは、1563年2月18日にギーズ公フランソワを背後から襲撃して死亡させた黒幕をコリニーと信じている。
ナヴァル王アンリとマルグリットの婚礼の数日後の1572年8月22日午前11時頃、ルーヴル宮近くの路上でコリニー提督は銃で狙撃された。このまま死んでいれば、事は大きくならずにすんだろう。しかし彼は、腕と指に負傷しただけ。パリにいたプロテスタント貴族たちは、コリニー暗殺未遂の報を聴きつけ国王に迫る。すぐに犯人を捕らえて罰せよ、さもなくば自分たちで実行する、と。この時パリには、ナヴァル王アンリの婚礼のために召集された多くのプロテスタント貴族が集まっていた。何が起こるかわからない。カトリーヌは密議を招集し結論を下す。プロテスタントが武装蜂起する前に、コリニー提督と指揮官レベルの有力貴族だけを殺害する(ただし、ナヴァル王アンリ、そのいとこのコンデ公アンリなど親王たちは除外)、と。
しかし、事件は予想外の展開を見せる。パリ市の民兵と民衆がプロテスタントの無差別殺戮を開始したのだ。24日、25日と二度にわたって出された国王の中止命令にもかかわらず、虐殺は8月30日まで続く。さらに大量殺戮は地方都市へも波及。少なくともパリだけで約3千名、フランス全土で約1万名の命が失われた(犠牲者総数については、諸説ある)。
8月24日がサン・バルテルミーの祭日であることから「サン・バルテルミーの虐殺」という名で知られるこの事件によってフランスはどうなっていったか?強硬なカトリックは勝利に酔いしれた。ローマ教皇は、「キリスト教徒に下されたこのすばらしい恩恵」に対し、神に感謝をささげるミサを行った。プロテスタントの側では、大量の改宗者、亡命者が現れる一方、残された残されたプロテスタントは過激化し、抵抗を継続。そのような状況下で、カトリック派、プロテスタント派の中間となる「ポリティーク派」が公然と主張を始める。宗教対立の平和的解決を目指す人々だ。彼らは言う。 「王国の分裂を招きかねない深刻な事態をどう収拾すべきか」、「そのような事態の収拾は、権力をいかなる機関、組織とも分有することのない強力な国王以外には不可能ではないか」。
こうして、強い王権、強い国家の出現を期待する声が日増しに強まっていく。そして、国内の混乱を解消する手段として、何ものにも縛られない「絶対王政」への道が準備される。
(「サン・バルテルミーの虐殺」)
(ヨーゼフ・マルティン・クロンハイム「コリニー提督の死」)
(エドワール・ドゥバ・ポンサン「虐殺跡を視察するカトリーヌ・ド・メディシス」クレルモンフェラン ロジェ・キリオ美術館)
(オラトワール・デュ・ルーヴル教会)
パリでは珍しいプロテスタント教会。北はサントノーレ通り、南はリヴォリ通りに挟まれた場所(ルーヴル美術館近く)に建つ。リヴォリ通り側壁面に、コリニー提督の像が建てられている。
(「コリニー提督像」オラトワール・デュ・ルーヴル教会)
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