「16世紀フランスとカトリーヌ」④

 夫アンリ2世を亡くした後、飾りといえば城の襞衿(ひだえり)だけの黒ずくめの服がカトリーヌの平服になる。それを目にした人々に不吉な予言者に出会ったような恐ろしい印象を与えた喪服。確かに、舞台の黒子のように影で政治を操ることになる彼女にとって、何よりふさわしい衣装だったかもしれない。彼女の生きた時代に起きた陰惨な事件がこの衣裳と結びつき、「血の色を好む残忍な権力者」という歪んだイメージをカトリーヌに与えてきたように思う。実際はどうだったのか?

 15歳で即位したカトリーヌの長男フランソワ2世は16歳で亡くなる。次の王は次男シャルル9世。まだわずか10歳。当然摂政が必要だが、「サリカ法」(フランクの一氏族サリ族の慣習法。王位継承のルールも定めている)では摂政権は第一王族であるナヴァル族に帰属。女、ましてカトリーヌのような異国人である女には授けられないことになっている。カトリーヌはどうしたか?

 それまでカトリーヌが王母でありながら表立って権力を行為できなかった。それは、王妃メアリーとその親戚ギーズ一族(狂信的カトリック)の存在があったから。しかし彼らの権力の源フランソワ2世が亡くなったのだ。しかし摂政権を持つナヴァル王(ブルボン家。ユグノー)に当時の困難なフランスのかじ取りなどまかせられない。外からはスペイン(カトリック)、イングランド(プロテスタント)の介入にたえず脅かされ、内からは経済恐慌、ユグノーの反乱と八方塞がりの状態。カトリーヌは、ナヴァル王を呼びつけ言葉巧みに説得し、摂政権を譲らせる。カトリーヌの時代が幕を開ける。

 権力を手にした彼女がまず着手したのは、ユグノーに対する思い切った寛容政策。追放されたユグノーは復帰を許され、奴隷としてガレー船に送られた者も呼び戻された。陰謀の首謀者として捉われていたコンデ公も宮廷に復帰。しかしこうした政策は、カトリック側の強い反動を招く。国内だけではない。スペイン王はカトリックを擁護するため軍を介入させるといってカトリーヌを脅す。

 カトリーヌにとって大切なのは国家の統一、それを実現させるためのバランス・オブ・パワー。つまり、第一に政治、第二に宗教なのだ。国王に対する忠誠さえ守っていれば、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、好き勝手なやり方で神に祈っていればいい。しかし宗教的統一を第一に考える両勢力は、そのどちらも相手を根絶することが神に従う道だと信じて疑わない。カトリーヌは双方からこう非難される。「二つの泉から水を飲む女」と。

 両者の対立は激しさを増す。カトリーヌの寛容政策は破綻。カトリーヌは怒る。「こちらが譲歩すればするだけユグノーはつけあがる。」と。そして国王の地位を狙うコンデ公と宮中監督官になりたがっているコリニーの手で1567年戦端が開かれる。1569年6月、マンスフェルド伯率いるドイツ軍がリム―ザンでユグノーに合流したことで、国王軍とユグノー軍の兵力差はほとんどなくなる。外国兵がフランスの国土を荒らし、略奪と虐殺の限りを尽くして暴れまわる。カトリーヌが何としても避けたかった事態が現実となる。カトリーヌのユグノーに対する怒りはこれまでになく激しくなる。この難局を彼女はどう乗り越えようとしたか?彼女が目指すのはあくまで国家統一。ユグノー派との和解を推進するために、驚くべき手を打った。王女マルグリット(アレクサンドル・デュマの歴史小説『王妃マルゴ』のヒロイン)と、コンデ亡き後ユグノー派の領袖となったブルボン家のナヴァル王アンリの結婚である。

 (フランソワ・クルーエ「カトリーヌ・ド・メディシス」カルナヴァレ美術館)

(フランソワ・クルーエ「ギーズ公フランソワ」ルーヴル美術館)

(ギーズ公家系図)ギーズ公フランソワは、フランソワ2世王妃メアリー・ステュアートの叔父

(フランソワ・クルーエ「シャルル9世」トゥールーズ バンベルク財団美術館)

(「コンデ公ルイ1世」ヴェルサイユ宮殿)ユグノーの中心人物

(「ガスパール・ド・コリニー」フランス国立図書館)

 コンデ亡き後のユグノーの事実上の首長。シャルル9世が父と慕う。

(「王妃マルゴ」)

(「ナバラ王アンリと王妃マルゴ」フランス国立図書館)

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