「ブルボン朝の始まりとアンリ4世」

  「サン・バルテルミーノ虐殺」後も宗教戦争は続く。プロテスタント側は、多くの改宗者、亡命者を出す一方、抵抗を激化させる人々も少なくなかった。「暴君放伐論」を唱える人々も出てきた。これは人民主権の国家観。つまり「君主を選ぶ権利は人民にある。もしも君主が義務を果たさず、横暴に振る舞うなら、人民はこの暴君を追放することができる。」というもの。カトリックはというと、1576年「旧教同盟」(「ただ一つの信仰、ただ一つの法、ただ一人の王」が旗印)を結成し、1588年にはパリを掌握。シャルル9世(1574年結核で死亡)のあとをついだアンリ3世をパリから追放してしまう。

 しかし、この年の7月カトリック陣営を震撼させる世界史上の大事件が起きる。スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でエリザベス率いるイングランドに致命的な敗北を喫したのだ。これに勇気づけられたアンリ3世は反撃に出る。12月に旧教同盟の領袖ギーズ公アンリを暗殺。ナヴァル王アンリ(アンリ・ド・ブルボン)を王位継承者と認める。しかし、そのアンリ3世も、翌年8月、旧教同盟の狂信的支持者のドミニコ会修道士によって暗殺されてしまう。ここに13代続いたヴァロワ朝は幕を閉じる。

 新王アンリ4世(アンリ・ド・ブルボン)が即位しても、宗教戦争は終わらない。旧教同盟は新国王を認めない。またスペイン国王フェリペ2世も介入を本格化し、自分の娘イザベラをフランス王位の候補者にしようとする。国内の際限ない分裂・対立、外国からの干渉という危機にアンリ4世はどう対応したか?カトリックへの改宗(1593年)である(いったい何度改宗、再改宗を繰り返したことか)。そして、1594年3月、ようやくパリを開城させることに成功。1598年、最後まで抵抗をつづけたブルターニュを帰順させ、八次にわたった長いユグノー戦争はようやく終結した。そして4月には「ナントの王令」が出され、制限付き(例えば、パリとその周辺の約20km以内ではユグノー派の礼拝は禁止)ではあるもののユグノー(プロテスタント)に信仰の自由が認められた。

 アンリ4世のもとで、宗教戦争の内乱で傷ついた秩序と国土の回復が図られた。そして、ブルボン朝の基礎が築かれ、フランスはさらに繁栄に向かうかに見えた。しかし、その矢先の1610年アンリ4世は狂信的なカトリック信者ラヴァイヤックによって刺殺されてしまった。

 ところでこのアンリ4世、歴代の国王の中でも特に人気が高い。長年の宗教対立を終結させた有能な国王ゆえだろうが、それだけではないと思う。無類の女好き。ある説では愛人の数56人。最初の王妃マルゴ(カトリーヌ・ド・メディシスの娘)とは「仮面夫婦」。それぞれ愛人がいた。1599年、教皇が二人の結婚の「無効宣言」を出し(それがないと離婚はできない)、アンリはマルゴと正式に離婚。トスカーナ大公の姪マリー・ド・メディシスと再婚。しかし、もともとアンリがマルゴと離婚して王妃に迎えたかったのは愛人ガブリエル・デストレ。二人の間には2男1女がいたが、そのこどもたちに嫡出子の身分を与え王位継承者にしたかったためだ(フランスの王位継承法は非嫡出子を王位から排除)。このガブリエル・デストレ。一度見たら忘れられないフォンテーヌブロー派の名画『ガブリエル・デストレとその妹』によってその姿を今に伝えている。しかし、彼女が王妃になることはなかった。1599年4月10日急死(当然毒殺説が存在する)。こうして新しい王妃マリー・ド・メディシスが誕生する。

 (フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」ルーヴル美術館)

 ガブリエル・デストレの右の乳房をつまむ妹のしぐさは、ガブリエルがアンリ4世の私生児を懐妊したこと、ガブリエルが手にしている指輪は彼女が正式の結婚を望んでいることを示しているという解釈がなされている。その背景では、一人の若い女性がおそらく生まれてくる子供の産着を縫っているようで、王の寵妃が身ごもっていることの象徴という説を裏付けているとされる。

(ガブリエル・デストレ)

(フランス・ポルビュス(子)「アンリ4世」)どの絵を見ても、愛嬌のある表情が印象的。サン・バルテルミーの虐殺を含め、すさまじく過酷な状況を生き抜きながら、まるで悲壮感を感じさせないところがフランスでの人気の高さの理由かもしれない。

(フランス・ポルビュス(子)「アンリ4世」ルーヴル美術館)

(「アンリ4世騎馬像」ポン・ヌフ)

(ルノワール「ポン・ヌフ」ロンドン ナショナル・ギャラリー)

 中央右手の橋から突き出た場所にアンリ4世騎馬像が建っている。今も同じ場所にある。


(フランソワ・ラヴァイヤックの公開死刑)

(フランソワ・クルーエ「浴室の婦人」ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

この女性のモデルもガブリエル・デストレとされる

(フランス・ポリュブス「マリー・ド・メディシス」フィレンツェ ピッティ宮殿)

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