「16世紀フランスとカトリーヌ」③
カトリーヌの夫アンリ2世が死ぬことになる騎馬試合は、二つの結婚の祝賀祭の中で行われた。このうちのひとつがスペイン国王フェリペ2世とカトリーヌの長女エリザベート王女の結婚。フランスとスペインの和解を強化するために取り決められた。1494年のフランス王シャルル8世のイタリア侵入から、半世紀以上にわたって続いたイタリア戦争がようやく終結したのだ。
この戦争の結果は?フランスはイタリアに有していた領地のほとんどすべてを失い、イタリアはスペイン・ハプスブルク王朝一色に塗りつぶされた。莫大な資金をつぎこんだフランスは破産状態。そのような事態の中で唯一繁栄を楽しんでいたのが特権で保護されたカトリック教会。聖職者たちは、聖職を金で売り、免罪符を乱発し、税金を不当に引き上げ、民衆から金を搾り取る。人々の教会に対する不満は高まっていく。こうした不満に火をつけたのが宗教改革運動。カルヴァンによってフランスにもたらされた新教主義は、たちまちフランス全土に広がり、16世紀半ばには新教徒(ユグノー)はカトリックに十分対抗できる勢力になっていた。カトリック教会の腐敗を暴き、神の代理人たるローマ教皇の絶対的地位を否定するユグノー。1559年5月26日には首都パリでユグノー全国会議が開かれるまでになる。大貴族の中にも帰依するものが現れる。その中にはナヴァル王子(後のブルボン家出身初代国王アンリ4世)の父アントワーヌと母ジャンヌもいた。
もちろんカトリックも黙ってはいない。異端(新教徒)弾圧は、日増しに苛烈さを増していく。9月4日に発布された「ヴィレル・コトレの勅令」の内容はこうだ。
「不法な会合や夜間の秘密集会がおこなわれ、出席者がカトリック教会の掟に反した聖餐式や秘蹟をおこなった家屋は取り壊され、永久に取り潰されること」
異端者を匿ったり告発を怠った者は、それだけの理由で死刑に処せられた。フランソワ2世の即位(1559年9月18日)からその年の終わりにかけて、4カ月足らずの間にパリだけで14人のユグノーが死刑になった。そしてカトリック対ユグノーの闘争は、フランスにおいては家と家(「ギーズ家」対「ブルボン家」など)、貴族と王族の闘争のかたちをとる。もはや宗教は大義名分に過ぎなくなり、王位をめぐる野心が天下分け目の戦いを繰り広げる。
夫の死がカトリーヌに残したもの。それは7人のいまだ幼い子供たちとカトリックとユグノーに分裂し、破産状態に打ちひしがれた王国。その周囲には、宗教によって分裂状態になったフランスの危機に付け込んで自らの属国にしようと虎視眈々と狙うスペイン(フェリペ2世)、イングランド(エリザベス1世)を初めとする列強。アンリ2世のあとを継いで15歳で即位したフランソワ2世はというと、病弱(1年後に死去)で王としての務めもおろそかにして朝から晩まで狩りに熱中。その美貌で、気の弱い夫をすっかり尻に敷いてしまった王妃メアリー(スコットランド女王でもあり、イングランドの王位継承権も持っていた)。王権を一門の手中に完全に掌握した名門ギーズ一族。カトリーヌはこの困難な状況にその豊かな政治的センスで立ち向かっていく。そのセンスは、彼女の生い立ちとマキャヴェリ『君主論』の愛読によって培われた。君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量が必要かを論じたマキャヴェリ『君主論』。それが献呈されたのはウルビーノ公ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ。カトリーヌの父である。
(フランソワ・クルーエ「フランソワ2世」フランス国立図書館) 15歳で即位
(フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス「スペイン王妃エリザベート」プラド美術館)
スペイン語名はイサベル・デ・バロイス。14歳で嫁ぎ、9年後に死亡。
(アントニス・モル「フェリペ2世」エル・エスコリアル)
(カトリーヌ・ド・メディシス)
(フランソワ・クルーエ「王妃メアリー」イギリス王室コレクション)
(ラファエロ「ウルビーノ公ロレンツォ」個人蔵)
カトリーヌ誕生の21日後、梅毒で急死
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