「16世紀フランスとカトリーヌ」②

 結婚後7年間不妊に苦しんだカトリーヌ。14歳でフランスの第二王子に嫁ぐも、すぐに教皇クレメンス7世と言う最大の庇護者を失う。さらに夫の兄である王太子殺しの汚名を着せられ、離婚は時間の問題だった。しかし諦めることを知らないカトリーヌ。天性の社交家、外交家である天分を存分に発揮して、宮廷に踏みとどまり、したたかに根を張っていく。彼女はイタリアの最先端文化を身につけ、ルネサンス文化をこよなく愛する国王フランソワ1世からは可愛がられていた。その国王との関係強化を図る。嗚咽に声を途切れさせながら言う。

「陛下・・・・わたしをお預けになる尼僧院はどこに決定したのでしょうか。」

 女好きの国王の弱点を最大限に利用。思わぬ味方もついた。なんと夫アンリ2世の愛人ディアヌである。ディアヌにとってもカトリーヌの離婚は困るのだ。カトリーヌが追い出されれば、家柄もよい美貌の妃がとってかわる。そして早々にアンリの嫡子をもうける。そうなれば、彼女の寵姫としての地位は危うくなってしまう。ならば、立場が弱く自分に頼らざるを得ないカトリーヌを王妃にとどめておいた方が得策だ。 しかし、いずれにせよカトリーヌの立場は跡継ぎを生まなければ根本的には改善されない。不安定なままだ。彼女は、全国各地から名高い錬金術師や魔術師を呼び集める。そして彼らの奇想天外な処方に身をゆだねる。「ベルトに縫いつけた袋に大蛙の死骸を入れて持ち歩く」、「毎月一度牡驢馬の尿を飲む」など。聞くもおぞましいこんな処方もあった。「分娩の2ヶ月前に取り出した胎児の肛門の肉を食べる」。

 いずれの方法を実行し、効果があったか定かでないが、ついにその日はきた。1544年1月16日、待ちに待った世継ぎが誕生したのだ。その後は、驚くペースで出産。なんと13年間で10人の子を産み落とした。では、これによってカトリーヌの地位は安定したか?王妃として権力は強化されたか?否である。なぜか。子どもたちはうまれるとすぐに取り上げられ、ディアナのもとに連れて行かれてしまった。そして、彼女のもとで養育され、彼女の権力基盤を固める道具に利用されたのだ。幼くして両親を亡くし、愛情につつまれた家庭を人一倍強く求めたカトリーヌ。しかし、彼女に許されたのは、わが子の様子を少しでも早く知るために、鉛筆で描かせた子どもの肖像を頻繁にとりよせることぐらいだった。それでも彼女は耐えた。夕食も夫、ディアヌと3人一緒。食事が終わりに近づくと夫アンリ2世がカトリーヌに声をかける。

「そなた、お疲れではないか。お部屋に帰って、休息されてはいかがかな?」

 そして、夫はディアヌの部屋へ二人で消えてゆく。物わかりのよい妻を装い、ディアヌの前ではお人よしの女友達を演じながら、嫉妬に燃え、屈辱に耐える日々。娘のマルゴには手紙で本音を漏らしている。

「夫を愛する妻は、売春婦(もちろんディアヌのこと)を好きになることなど絶対にありえないことです。このような言葉が卑劣で私たちに合っていないことは知っていますが、そのように呼ぶほかありません」

 そんな生活が終わりを告げたのは、第一子誕生から15年後の1559年7月10日。夫アンリ2世の突然の死によってである。騎馬試合で、相手の槍が国王の目に突き刺さたことが原因。この死を、この試合の4年前に予言していた人物がいる。予言者ノストラダムスである。

「若き獅子、老いたる獅子に打ち勝つ  戦いの場で一騎打ちの決闘の最中

 金の檻の中、目がつぶされ      ふたつの階級のひとつ、やがて息絶える、残酷な死」

  いよいよカトリーヌの時代が始まる。

(ノストラダムスの予言を聞くカトリーヌ)

( フランソワ・クルーエ?「アンリ2世」ルーヴル美術館)

(フランソワ・クルーエ「カトリーヌ・ド・メディシス」)

(フォンテーヌブロー派「サビーナ・ポッペア」ジュネーヴ美術歴史博物館)

モデルはディアナ。サビーナ・ポッペアは皇帝ネロに愛され、妻の座におさまるためネロに正妻を追い出させ、それに反対する母親アグリッピーナを殺させた古代ローマ時代の女性。

(カトリーヌの子どもたち)

(予言者ノストラダムス)

(馬上槍試合)

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