「16世紀フランスとカトリーヌ」①

  英仏百年戦争(1337年~1453年)に勝利しフランスを事実上統一したフランス(ヴァロワ朝)は、イタリア半島へと領土的野心を向ける。レオナルド・ダ・ヴィンチが放浪生活を余儀なくされたのも、この事と関わっている。しかし、そのフランスに立ちはだかったのが、イベリア半島からイスラム勢力を追い出し1492年に統一を果たしたスペイン。16世紀はスペインの世紀。1580年にはポルトガルを併合し、ポルトガルが有していたアフリカやアジアの領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた。

 このスペイン「黄金の世紀」の象徴はマドリッドの北西45㎞にある「エル・エスコリアル修道院」。宮殿、霊廟、修道院、図書館からなる巨大な建物。宮殿の部屋数だけでも4500以上。1563年~1584年までかかって建造されたが、完成直後の1584年11月25日、ある日本人一行がここを訪れている。天正遣欧少年使節(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)。九州のキリシタン大名が派遣した。この時、謁見し、彼らを歓待したのはスペイン国王フェリペ2世。「南蛮の大王」と記されている。しかし、イギリス(イングランド)に侵攻したスペインの「無敵艦隊」はアルマダの海戦で敗れ、スペインの没落が始まる。

 フランスはこのような強大な勢力を誇ったスペインとの戦いで、国力が衰える。宮廷内部の権力闘争や宗教紛争も相次いだ。この時代、3代にわたって(フランソワ2世【1559-1560】、シャルル9世【1561-1574】、アンリ3世【1574-1589】)国王の母として実権を握ったのがカトリーヌ・ドゥ・メディシス。イタリアに侵攻してきた大国(フランス、スペイン、神聖ローマ帝国)からメディチ家存続をはかろうとしてフランスに送り込まれた。送り込んだのは、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂「最後の審判」を描かせた教皇だ。かれは、カトリーヌ(ロレンツォ豪華王の曾孫。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ)をフランス王フランソワ1世の第2王子(後のアンリ2世)に嫁がせるとともに、息子(庶子)のフィレンツェ公アレッサンドロをカール5世の庶出の娘マルゲリータと結婚させた。

 王太子フランソワが1536年(カトリーヌが夫を王位につけるために毒殺したとも噂された)、フランソワ1世が1547年になくなった(ルネサンス文化をこよなく愛し、レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年のパトロン。またカトリーヌのフランスにおける最大の庇護者だった)ことで夫がフランス国王アンリ2世に即位。しかし、王妃カトリーヌの結婚生活は幸せからは程遠いものだった。宮廷では「フィレンツェ商人の娘」(メディチ家は毛織物業、銀行業で財を成した)と蔑まれ、後見人だった教皇クレメンス7世は結婚後10カ月で他界。夫には以前から愛人(夫の国王即位後は寵姫)ディアヌ(国王アンリ2世より19歳年上だが、その美貌で王の愛を独占。宮廷で王妃カトリーヌ以上の大きな存在。当時、王族にしか与えられなかった公爵の地位も与えられたし、王家が所有する城の中で最も美しいとされたシュノンソー城も与えられた)がいたし、結婚後7年間不妊に苦しめられた。しかし、彼女はその生い立ち(母は彼女を出産後に死亡。間もなく父も亡くして孤児となる)からくる強さを備えていた。メディチ家での生活の中で身につけた権謀術数も駆使し、自らの力で状況を打開していく。

(シュノンソー城)

(エル・エスコリアル修道院)

(天正遣欧使節)

(カトリーヌの結婚) 中央が教皇クレメンス7世。アンリの後ろにいるのがフランソワ1世。

(フォンテーヌブロー派「狩人姿のディアナ」ルーヴル美術館)モデルはディアヌ・ド・ポワチエ

(フランソワ・クルーエ「カトリーヌ・ドェ・メディシス」ヴィクトリア&アルバート博物館)

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