「レオナルドとフランス」

  レオナルドが17年間のミラノ時代に最も時間とエネルギーを注いだスフォルツァ騎馬像は、粘土模型まで作成したが完成はしなかった。鋳造のために用意された75トンのブロンズは、迫りくるフランス軍(シャルル8世)の脅威への防備強化のため、フェッラーラ公の大砲鋳造用に回されてしまったためだ。さらに、1499年10月、フランス軍(ルイ12世)はミラノを占領し、レオナルドが仕えていたミラノ公イル・モーロは捕虜となる。レオナルドはミラノを去り、スフォルツァ騎馬像の粘土模型も、翌年、フランス軍の射手の標的にされて破壊されてしまう。

 レオナルドは、マントヴァからヴェネツィアを経てフィレンツェへ戻るが、1500年以降は一か所に長く留まることは二度となかった。1502年から1503年には、軍事土木技師としてチェーザレ・ボルジアに仕えるも、彼の没落にともないフィレンツェに戻る。「モナ・リザ」を描き始めたのはこの時。ヴェッキオ宮殿大広間にミケランジェロとの競作で「アンギアーリの戦い」の制作を依頼されるが、新たな技術に挑戦したため失敗し、未完に終わる。

 1506年、フランス王ルイ12世(かつてレオナルドが仕えたミラノ公イル・モーロを捕虜にした人物)の招きでミラノに赴き、翌年にはルイ12世の宮廷画家兼技師に任命される。1509年には、フランスのミラノ統治十周年の記念祝典の演出も行った。しかし、フランスによるミラノ支配も1512年に終わる。フランスの勢力拡大に恐れをなしたローマ教皇ユリウス2世がヴェネツィア共和国、スペイン、イギリスとの間で反フランス神聖同盟を結成し、フランスと戦い、フランスにミラノを放棄させたからだ。レオナルドは、ミラノから疎開するが、ヌムール公ジュリアーノ・ディ・メディチ(ロレンツォ・ディ・メディチの三男。彼の墓を作ったのはミケランジェロ)から招かれ、1513年ローマへ赴く(「モナ・リザ」の注文主もジュリア―ノとされる)。この時レオナルド61歳。 ローマでは、偉大な芸術家として丁重な扱いを受けた。しかし、「未完の画家」のレッテルを張られてしまっていたレオナルドに重要な作品の依頼はこない。また、熱心に取り組んでいた解剖学の研究も、教皇庁から解剖禁止の命令が下り頓挫。

 失意のレオナルドに手を差し伸べたのは、1515年に即位したばかりのフランス国王フランソワ1世だった。1516年、国王付きの画家・建築家・技師として迎えられた64歳のレオナルドは、アンボワーズへ赴き、城や都市の設計、舞台の企画などを行う。そして1519年、67歳でその生涯を終えた。手元には、現在ルーヴル美術館にある「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」、「洗礼者ヨハネ」が残されていたようだ。来年はレオナルドの没後500年になるが、レオナルドの埋葬地については諸説あり定まらず、遺骸もいまだ発見されてはいない。

 レオナルドの生涯をたどりながら改めて感じるのは、彼の人生がけっして恵まれたものではなかったということ、それにもかかわらずあれだけの研究・活動(現存する手稿は約8000ページ。その倍以上が失われたままと言われる)を行ったということへの驚き。彼の辞書には「絶望」という文字はなかったようだ。どのような状況下でも、ぶれることなく、ひたすら自分が抱いた興味・関心・疑問・問題意識と誠実に向き合い続けた。レオナルドの座右の銘はこうだった。 「鉄は使わなければ錆び、水は淀めば濁り、寒ければ凍るように、知性もまたはたらかせなければ堕落する」 

(アングル「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」プチ・パレ)

フランソワ1世がレオナルドの死をみとったというのは、史実にはないフィクション

(ジャン・クルーエ「フランソワ1世」ルーヴル美術館)

(「クルーの館」=クロ・リュセ城) 

アンボワーズ城とは地下通路でつながっている。アンボワーズでレオナルドは死ぬまでここに住んだ。

(レオナルド「モナ・リザ」ルーヴル美術館)


(レオナルド「聖アンナと聖母子」ルーヴル美術館)


(レオナルド「洗礼者ヨハネ」ルーヴル美術館)

(レオナルド「自画像」トリノ王宮図書館)

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