「ミケランジェロのローマ」④
システィーナ礼拝堂のような教会施設の装飾プロジェクトは、神学の専門家の助言を受けて内容を決め、基本計画も教皇宮廷神学顧問の承認を得るのが普通だが、ミケランジェロが描いた天井画は、そのような神学者から干渉を受けた形跡がいっさいない。あれだけの夥しい数の裸体像を、彼らが許すとは考えられない。なにしろキリスト教的伝統 では、裸体で描かれるのは地獄の責め苦にさいなまれる罪人と決まっていたのだから。ユリウス2世が、ミケランジェロに好き勝手にやることを許したようだ。どれほど破天荒な教皇だったかを同時代の証言から見てみよう。
①ヴェネツィア大使
「 それはほとんど筆舌に尽くしがたい、この人がいかに強情な暴れ者で、御しがたい人物であるかということは・・・・肉体的にも精神的にも巨人の素質を持った人である。行動といい、情熱といい、すべてが並はずれている」
②フランス王フランソワ1世
「 この世紀において我々は教皇ユリウスほど恐ろしい敵を未だかつて知らない」
③スペイン大使
「 バレンシアの施療院に行けば、聖父様よりはるかに気の確かな患者が何百人も鎖につながれている」
ミケランジェロは、ユリウスによってその準備に情熱を注いでいた教皇墓碑の制作を突然中止させられ、慣れないフレスコ画でのシスティーナ礼拝堂天井画の制作を命じられた。しかし、絵画制作はミケランジェロの自由に任した。一般的なカトリック解釈とは異なる、ミケランジェロ独特の聖書解釈に基づく表現も随所に見られるが、側近たちのクレームをユリウスが封じたのだろう。
ルネッサンスで活躍した人物たちは限りなく人間的だ。まるで善悪の彼岸に生きていたと感じさせるような人物にあふれている。ユリウスもその一人。それと比べると、今の時代を生きる人間は、何とスケールが小さくなってしまったことか。こんな時代には偉大と呼べるような表現は生まれないのかもしれない。
(システィーナ礼拝堂天井画「大洪水」)夥しい裸体の人物像
(システィーナ礼拝堂天井画「大洪水」部分)
アダムは、果実をもぎ取ろうと自分から枝に手を伸ばしている。つまり 、ミケランジェロは男女双方の存在そのものに罪の原因 を見出している。これは女性に罪の起源を押し付け、女性を低く見ようとする伝統的なキリスト教的見方とは異なる解釈である。それにしてもミケランジェロの女性は、どうしてこうも筋肉ムキムキ、ボディービルダーのような肉体なんだろう。
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