「ミケランジェロを生んだフィレンツェ」

  ロマン・ロランは『ミケランジェロの生涯』を次の一文で書き始めている(岩波文庫 高田博厚訳)。

            「彼はフィレンツェの市民であった。」

 1530年代に入って、フィレンツェでは共和政体が崩壊し、復権したメディチ家の君主政体は揺るぎないものとなる。1534年、共和主義者ミケランジェロはローマへ移り住み、二度とフィレンツェに戻ることなく1564年、ローマで89年の生涯を終えた。その間に、カンピドリオの丘を整備し、システィーナ礼拝堂壁画『最後の審判』を描き、サン・ピエトロ大聖堂クーポラを設計した。1527年の、神聖ローマ皇帝軍による「ローマ劫掠」の記憶がまだ生々しかった時期、その晩年をローマ再生のために尽くしたのだ。そんなミケランジェロをロマン・ロランは「フィレンツェの市民であった」と書いた。「彼はこの都(まち)とこの時代のものであった。その市民たちの偏見や情熱や興奮もすべてともにあった。」とも書いている。フィレンツェは、もちろんルネサンスが誕生した街。一体どうして、ルネサンスはこの街で生まれたのか?なぜミケランジェロのような人物がフィレンツェで生み出されたのか?ロマン・ロランはフィレンツェについてこう記している。

「陰気な宮殿、槍のようにとがった塔、くっきりした線のなだらかな丘並が、細い糸杉の黒い紡錘(つむ)や波のようにさざめく橄欖(かんらん)の被布(おおい)でおおわれて、すみれ色の空に美しくきざまれている。あのフィレンツェ—―ロレンツォ・ディ・メディチの蒼白い皮肉な顔や、大きく狡そうな口をしたマキャヴェッリが、金髪のボッティチェルリの「春(プリマヴェラ)」や黄味がかったヴィーナスたちとゆき会ったであろう、鋭く優美なフィレンツェ。あらゆる狂信にとらわれたり、あらゆる宗教的又は社会的興奮にゆすぶられたり、各人が自由であるとともに暴君であったり、この上もなく楽しく生きられると同時に生活が地獄であったりする、あの熱にうかされた、驕慢ないらだったフィレンツェ。—―市民は聡(かしこ)くて、狭量で、のぼせやすく、好き嫌いが激しく、辛辣な言葉を吐き、疑い深い根性で、探り合ったり、妬み合ったり、貪り合ったりするあの都(まち)。—―レオナルド(ダ・ヴィンチ)の自由な精神には場所のなかった都(まち)—―そこではボッティチェッリがスコットランドの清教徒(ピューリタン)のような神秘主義(ムスティシズム)に幻惑されて死に、—―山羊のような横顔で燃えるような眼つきのサヴォナローラが、美術品を焼く焚火の周りに弟子の僧どもを踊らせ—―そうして三年後にはこの予言者を焼くために又焚火が造られた。」

 一筋縄では理解できないこのような街フィレンツェでルネサンスは始まったのだ。塩野七生はフィレンツェでルネサンスが始まった理由を「まず挙げねばならないのは、フィレンツェ人の気質でしょう。我が身まで傷つけかねないほどの、強烈な批判精神です。」と答えている(『ルネサンスとは何であったのか』)。1375年から亡くなる1406年までフィレンツェ共和国の書記官長を務めたルネサンス期イタリアの政治家、人文主義者コルッチョ・サルターティは「フィレンツェ人であることは生来、また法によってローマ公民であること、またそれは自由であって隷属しないことを意味する。自由でない人間はフィレンツェ人ではない。」と述べた。だからこそ「あらゆる時代を越えて、専制政治を嫌い、自由と独立を愛する人々によってフィレンツェは愛される。あらゆる時代を越えて、芸術を愛する人々によってフィレンツェは愛される。」(若桑みどり『世界の都市の物語 フィレンツェ』)のだろう。ルネサンスを生み、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロを輩出した都市フィレンツェの不思議を追ってみたい。

(ボッティチェリ「春」ウフィツィ美術館)

(フィレンツェ)

 (ダニエラ・ダ・ヴォルテッラ「ミケランジェロ」)

(ミケランジェロ「最後の審判」システィーナ礼拝堂) 部分

(ジョルジョ・ヴァザーリ「ロレンツォ・ディ・メディチ」)

(サンティ・ディ・ティト「ニコロ・マキャヴェリ」)

(フラ・バルトロメオ「サヴォナローラ」)

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