「ミケランジェロのローマ」③

 「ピエタ」像(ローマ1498年)、「ダヴィデ」像(フィレンツェ1501年)で彫刻家としての名声の高まっていたミケランジェロを教皇ユリウス2世がローマへ招聘したのは1505年2月。その目的は、生きているうちに自らの巨大な教皇墓碑を建造させること。ユリウス2世は古代ローマの皇帝廟に匹敵する規模の記念碑を考えていた。その意を受けて、ミケランジェロは巨大な人物像40体からなる幅10メートル、高さ15メートルの巨大墓碑を構想する。材料は、「ピエタ」や「ダヴィデ」でも使ったカッラーラ産大理石。ローマからカッラーラまでは約400km。ミケランジェロはカッラーラの地で、8カ月間白大理石の切り出しや運び出しを指揮。そして1506年初頭、荷車90台分を超える大理石がサン・ピエトロ大聖堂前の広場に搬入された。ところが、ユリウスは墓碑建設計画を突然中止する。計画中のサン・ピエトロ大聖堂の再建に巨額の費用がかかること、生存中の墓碑建造は不吉であることが理由だったようだが、ミケランジェロは背後にそれをユリウスに入れ知恵した人間がいると推測した。その人物とは、ミケランジェロらフィレンツェ派と対立していたウルビーノ派の中心人物ブラマンテ(1503年からサン・ピエトロ大聖堂建築主任)。ミケランジェロが推測したブラマンテの策略とはこうだ。サン・ピエトロ大聖堂の再建の資金確保を理由にユリウスの墓碑建造計画を中止させる、浮いた資金を手に入れ私腹を肥やす、墓碑の仕事がなくなったミケランジェロには天井画作成をやらせる、フレスコ画の経験のないミケランジェロは失敗し、その仕事はウルビーノ派に依頼される。こんな策略だ。ではブラマンテは、天井作成を誰にやらせようとしていたとミケランジェロは考えたか。ラファエロだ。実はこのラファエロをローマに招聘したのもユリウス2世なのだ。事実はともかく、以上のように推測(邪推?)したミケランジェロは、未払いのままの大理石の運搬費用をユリウスに請求し拒絶されると1506年4月17日、夜逃げ同然にローマを去りフィレンツェへ帰ってしまう。職場放棄!激怒したユリウスはどうしたか?ミケランジェロを戻すためにフィレンツェ共和国を恫喝。まさに″IL PAPA TERRIBILE ″(「恐るべき教皇」)。驚いた共和国はミケランジェロを説得。ミケランジェロが教皇に謝罪して、しぶしぶ天井画の作成に当たることになる。こんな経緯で作成されたシスティーナ礼拝堂天井画が、ミケランジェロ、いやルネサンスを代表する名画となり、今も多くの人々足をシスティーナ礼拝堂に運ばせている。

 蛇足だが、カッラーラの大理石を使って熟成される食べ物は何かご存じだろうか?もともと、肉体を酷使する採石職人の保存食で「貧乏人の生ハム」と呼ばれていた食べ物。″Lardo di Colonnata″(「コロンナータのラルド」)だ。豚肉の背脂に塩、ハーブ、スパイスをまぶし、6か月以上熟成させるが、その熟成に使われる容器が大理石なのだ。「スローフード協会」の指定も受け、今ではすっかり高級品になってしまった。しかし、命がけで石を切り出す採石職人にまじって汗まみれ、埃まみれで働くミケランジェロを想起しながら楽しみたいなら、こちらもしっかり汗を流して働いた後に、スプマンテやランブルスコと一緒に食べるのがいいと思う。

(ミケランジェロ「ダヴィデ」部分)

(カッラーラ)

(カッラーラの採石場)

(大理石の容器で熟成される「コロンナータのラルド」)

(「コロンナータのラルド」)

(ラファエロ「自画像」ウフィツィ美術館)

(ラファエロ「牧場の聖母」ウィーン美術史美術館)

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