「海洋国家オランダのアジア進出と日本」5 平戸オランダ商館

 ポルトガル船の追放にはいくつか解決しなければならない問題があった。第一は必要物資の供給である。当時、生糸などの商品は需要の多くを輸入に頼っており、ポルトガルも大きなシェアを占めていた。したがって、ポルトガル追放による生糸供給の減少をどのように乗り切るか。第二は、追放されたポルトガルの報復行動に対する懸念である。これらの点を解決するため幕府高官は参府したオランダ商館員フランソワ・カロンに対して質問を繰り返している。

 まず第一の点については、主要な貿易拠点はすでにオランダが押さえており、必要な量を十分に供給できる。第二の点についても、すでに台湾以北の制海権はオランダが握っており、ポルトガルには大胆な軍事行動はできない、と述べている。

 幕府内部でも見解は分かれていた。酒井讃岐守忠勝を主席とする年寄(老中)たちは、オランダの生糸貿易がポルトガルのそれに肩代わりできるかとしばしばカロンに問いただし、ポルトガル船と中国戦を長崎に、オランダ船を平戸に入港させつつキリシタン禁制と貿易統制を行うことは可能であるとの考えを捨てきれずにいた。しかし家光側近にあった大目付兼宗門改役の井上筑後守政重(遠藤周作『沈黙』に、重要人物の一人として登場。もとはキリシタンでのち改宗したとの説があるが、『沈黙』もその立場から描かれている)は禁教貫徹のためポルトガル人追放を強行した。

 1640年11月8日(寛永17年9月25日)、井上は突然平戸商館を訪れて臨検したのち、松浦邸にカロンを招き、1639年に完成したばかりの豪華な洋風倉庫(長さ46メートル、幅13メートル、高さ6メートル[推定]で、屋根裏部屋を含めると3階建てと推定させる大型の石造倉庫で銀117貫もの巨費を投じて建てられたもの)から始めてすべての商館の建物を破却すべきこと、商館長は1年以上日本に滞在してはならず、それはキリスト教の日本に及ぼす影響を断ち切るためである、との命令を下した。建物の破却の表向きの理由は、倉庫正面の破風に記された西暦年号「1639」。すなわちキリスト生誕を紀元とする年号が記されていることがキリスト禁教令に背いているということだったが、真の理由はその豪奢な石造りの建築自体にあった。すぐにも要塞に転用できそうな堅牢な洋風建物と島原の乱で明らかとなったオランダ砲の威力とが脅威と受け止められたようだ。

 井上は、カロンがこのような命令に容易に従うとは考えていなかった。松浦邸には、20人の屈強な男たちが物陰に待機しており、カロンらが少しでも不平を漏らせばただちに斬り捨てる手はずになっていた。それだけではない。平戸オランダ商館も、熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。しかしカロンは、命令に一言も抗議せず、冷静に受け入れ、翌日から200人のオランダ船員と200人の日本人人夫を2週間動員して建物の破却にあたらせた。この対応は、1637年の東インド会社の「十七人会」が「会社員は日本に馴染み、何でも耐えねばならない」と大方針を明確にしていたことに加え、カロン自身が日本語を流暢に話し(日本滞在20年。日本人女性と結婚)、日本の慣習にもよく通じ、オランダ人が厚遇されるようにつねにこころを砕いてきたことの結果であろう。このカロンの決定的な対応が、貿易断絶の危機をしのぎ、その後の長い日蘭関係を救ったのである。

 島原の乱の結果、カトリックを奉ずるポルトガル人は最終的に国外追放となり、彼らが居住していた長崎の扇形の人口島「出島(もともと、長崎在住ポルトガル人たちを隔離する目的で、1634年建造に着手し、1636年に完成したもの)」は空き家になった。新たな貿易相手を求める長崎商人の要請と、目の届くところにオランダ人を置いておきたい幕府の思惑とが一致し、1641年、オランダ商館はその出島へ移転させられる。以後、オランダ人たちはこの「国立の監獄」で、しかしヨーロッパで唯一許された国として日本貿易を続けていくことになる。

映画『沈黙 -サイレンス-』

映画『沈黙 -サイレンス-』 右が井上筑後守を演じるイッセー尾形

平戸のオランダ商館(17世紀の版画)

「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫) 2011年復元

「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫)復元 中央上部に、問題とされた「1639」の年号が見える

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