「海洋国家オランダのアジア進出と日本」6 出島オランダ商館

 出島は、縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール。東京ドームのグラウンド面積に等しい。1634年に建造に着手し、36年に完成したが、建造を請負ったのは、長崎、博多、京都、大坂、堺などの豪商25人で、多くは長崎を拠点とする朱印船貿易に携わっていた。オランダ人には、自分たちの商館を立てる場所を選ぶ権利はなかった。

 オランダ人は1641年以後この島に住むようになったが、出島は天領であり、彼らの立場はあくまでも「店子(たなこ)」だった。外国人は日本列島で不動産を取得することは許されていなかった。オランダ人が住む建物は「家主」である商人たちが用意し、オランダ東インド会社は家賃として毎年55貫目を支払った。これは現在の日本円にして1億円近い金額になるそうだ。出島の建物は、特別に許されてオランダ人が建てたオランダ風建築の倉庫2棟を除けば、すべて日本風の家屋だった。オランダ人はその内部を自分たちの使いやすいように改装、装飾して使用していた。

 出島の唯一の出入り口は、対岸の江戸町とを結ぶ狭小な表門橋。表門から直進する短い通りとこれに直交する長い通りによって出島は四つの区域に分かれ、荷揚げ門である西側の水門に向かって左側にカピタン部屋(商館長居館)、検使部屋、通詞部屋、右側には会社用の倉庫や入札場があり、島の東半分は陸側が庭園や船長宿舎、海側が家畜小屋や倉庫になっていた。出島にオランダ人が移った頃はまだ8戸しかなかったが、17世紀末にはこうした街並みが整い、18世紀には建物65棟を数えた。バタフィア占領記念日の5月30日とか奉行の来訪の時など三色旗を掲げる旗竿ももとは商館長居館の海側にあったのが、18世紀のいつごろからか会社の倉庫の前面に移された。

 このような狭い出島に閉じ込められた上に、オランダ人には自由がなかった。出島の入口には次のような制札が建てられていた。

 禁制   出島町

 一  傾城の外(ほか)女入る事

 一  高野ひじりの外出家山伏入る事

 一  諸勧進並びに乞食入る事

 一  出島廻り榜示杭より内、船乗り込むこと。附り橋の下船乗り通る事

 一  故なくしてオランダ人出島より出る事

 右の條々これ相守るべきものなり

 商館長一年交代の制度によって平戸時代と違い日本人妻と生活することは許されなかった。表門では公務をもつ者以外、一般の市民は「出島乙名(おとな)」(家主25家を代表する出島の管理責任者)の交付する札なしには出入りできなかったし、オランダ人は公然と日曜日の礼拝をすることも許されなかった。このように出島転入当初、オランダ人にはあまりに制約が多かったので1642年、オランダ東インド会社総督アントニオ・ファン・ディーメンは江戸の老中宛に日本語の書簡を送って緩和を願おうとした。しかし、書簡自体が非礼として受領を拒まれている。後にオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたシーボルトが著わした『日本交通貿易史』によればその陳情書にはこう書かれていた。

「我等は長崎に至りしとき、ポルトガル人の住みし出島を居住地として指定され、ここにて監視され、何人とも話するを得ず、ポルトガルよりもなお悪様に待遇せられ、何か悪事をなし日本国に取りて危険なる人物の如くに取扱われし・・・・我船舶は長崎に投錨するや厳重に捜査せられ。鉄砲弾薬その他の戦具は船より降し、帝室の倉庫内に蔵(おさ)められ、船上の帆は封印せられ、櫂・舵は揚げられて、再び帆を張らねばならぬ日の確定するまで、陸上に蔵め置かる。船が検査を受けて荷卸しもすめば、我等の荷物及び士官達は検査官のため、何の訳なくに、犬の如くに棒にて打のめされ、そのため色々の悶着も起こることあり。我等は船の上に於て、そこに流竄(「りゅうざん」遠地に追放して流すこと。流罪。)されたる如く、検査官に予め申入れずば、他の船にも陸地にも行くこと叶わず。」

それにしても、このような扱いを受けながらもオランダが日本との交易を続けたのは、もちろん儲けが大きかったからだ。オランダがわが国から輸入したのは銅と樟脳(しょうのう)が大半だったのだが、わが国から輸出される銅の品質が評価されて世界で高値で取引されるようになり、オランダはその銅で大いに儲けていたのである。

川原慶賀「出島図」1833ー36

出島 1824~1825年頃に描かれた出島の鳥瞰図

海側から見た出島 19世紀

川原慶賀「長崎港図」

広渡湖秀「蘭船図」

「オランダ東インド会社総督アントニオ・ファン・ディーメン」アムステルダム国立美術館

「長崎丸山阿蘭陀人遊興の図」19世紀前半 阿蘭陀人は、時には日本人の通詞や商人らが同行して、長崎の町に出ることもあった。

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