「海洋国家オランダのアジア進出と日本」4 島原の乱

 オランダとの交易というと外国の珍しい文物が数多くもたらされたというイメージを抱きがちだが、それらの貿易額全体に占める割合は微々たるものであった。オランダ商館で、日本に持ち込む商品の8割以上は中国産の生糸を中心とした反物類であり、反対に日本から持ち出すものの8割以上は銀であった。そう、この銀こそスペインからの「独立戦争」(「八十年戦争」1568年~1648年)を続けていたオランダが欲しくてたまらなかったもの。戦国時代の日本は銀の産出国で、最大時には世界の生産量の3分の1を占めたという。家康は鉱山開発に力を入れていた。若き平戸商館長スペックス(初代長官:1609年~13年、3代目長官:1614年~21年)はこれを手に入れるために、家康に取り入り、家康が必要とするものを探る。「大坂冬の陣」で硬直した戦いを打開した強力な最新式の大砲「カノン砲」12門をもたらしたのもスペックスだった。

 オランダの対日貿易額は1630年代後半から飛躍的に増大する。それには、同時期に進められた幕府の対外政策の転換、いわゆる鎖国政策の進展が密接に関係していた。江戸時代はじめの日本の対外交易は、ポルトガル船、オランダ船、そして日本の朱印船によって活発な交易が行われていた。ところが鎖国政策によってまず朱印船が締め出されていく。さらに「島原の乱」(1637年~38年)を契機としてポルトガル船が日本から追放されたことにより、日本へ来航する外国船は中国船とオランダ船のみとなる。つまり、ライバルたちが次々に排除されていくことにより、相対的にオランダのシェアが拡大したのである。

 ここで「島原の乱」とオランダのかかわりについて述べておく。「島原の乱」当時の平戸商館長はクーケバッケル(第7代商館長 1633年―1638年)。彼が着任する直前に、「タイオワン事件」による日蘭の貿易中止は4年ぶりに解決されていたが、事件のオランダ側当事者であるピーテル・ノイツは人質として日本に抑留されていた。クーケバッケルは、フランソワ・カロンを参府させ、将軍徳川家光に拝礼。この時に、ノイツは解放された(1636年)。島原の乱が発生するのはこの翌年の1637年(寛永14年10月25日)。日本との関係改善、貿易独占をもくろむクーケバッケルは、長崎代官の末次茂貞(「タイオワン事件」の末次平蔵の息子)に手紙を送り、彼を通して長崎奉行に乱の鎮圧の協力を申し出る。

 一揆軍が籠城する原城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かった。討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに総大将・板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかった。そのため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低く攻撃は成功しなかった。事態を重く見た幕府は、2人目の総大将として老中・松平伊豆守信綱の派遣を決定する。知恵が湧くように出たため「知恵伊豆」(「知恵出ず」とかけている)と呼ばれた信綱は、城への糧道を厳しく遮断するとともに、オランダ商館長クーケバッケル(第7代商館長 1633年―1638年)に対し、平戸に停泊していた武装商船を島原へ回航し、原城に向けて砲撃を行うことを求めた。

 これに対しクーケバッケルは、幕府の信用を得る好機とばかり自ら商船デ・ライプ号に乗船し、他の一隻とともに島原に向かい艦砲射撃を行うと共に、兵員を上陸させ陸上からも砲撃を行わせた。砲撃は寛永15年(1638年)1月末から約10日間行われ(15門の砲で砲弾426発を発射)たが、目立った効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。後に信綱はこう語っている。

「城中の一揆首謀者らは南蛮人とも申し合わせ、遠からず南蛮より援兵を得られる旨を触れて百姓を籠絡しているから、それが現実ではないことを知らしめるため、同じ南蛮人であるオランダ人をして原城を砲撃させ、叛徒の迷いを覚醒させるためである。しかしこれが日本の恥になるということには思い至らなかった」

 いずれにせよ、オランダ船による砲撃は一揆軍に決定的ダメージを与えることはなかった(一揆勢の食糧欠乏の状況をみて行われた、同年2月27日総攻撃をかけた。一揆民は老人、女子、子供に至る非戦闘員まで大半が殺され、翌28日落城した。)。しかし、クーケバッケルが幕府側へ戦力を提供したことは、反乱軍へ与したと見られて追放されたポルトガルに対し、少なくともオランダは幕府に逆らう意思はないものとみなされ、鎖国下でヨーロッパ唯一の交易国の地位を確保するのである。

ヤコブ・コーマン「ナイエンローデの娘コルネリアと夫ピーテル・クノールおよび家族」アムステルダム国立美術館 

 コルネリアは、ナイエンローデが洗礼名スリシアという日本女性と結婚してできた混血児

天草四郎の想像図 島原城キリシタン資料館

天草四郎陣中旗 天草切支丹館

原城包囲の図 2隻のオランダ船も描かれている

「島原御陣図」(17世紀頃)

 原城を中心に、島原の乱を描いた絵図。九州諸大名が原城包囲に入った寛永15年(1638)2月上旬から、総攻撃の過程、さらには落城後の状況までも描き込まれている。これにも2隻のオランダ船が描かれている。

原城跡 海側からの眺め

一揆軍の動き

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