「海洋国家オランダのアジア進出と日本」3 イギリス撤退

 イギリスはせっかくのアダムズの貴重な情報を活かさなかった。どういうことか?イギリス東インド会社の幹部は、1610年頃から日本の渡航を考えており、家康の側近のアダムズも自国人の日本進出を望んでいた。すでに日本の事情に詳しいアダムズは、平戸が日本の西端にあって連絡に不便であること、家康がイギリス船の浦賀入港を希望していることを、東インド在住の同国人に手紙で書き送っていた。しかし、日本にやって来たジョン・セーリスを船長とするイギリス船クローヴ号は、アダムズの手紙を読みながら深くは気に留めず、1613年6月12日、平戸に入港してしまう。驚いたアダムズが平戸に急行した頃にはすでに商館の建物も決まり、浦賀への移転は事実上不可能となっていた。

 平戸が舞台ではオランダにかなわない。そこには既に数年間の商取引の経験を積んだオランダ商館があった。競争は激しいものとなるが、イギリスはオランダよりも大いに立ち遅れているのみならず、商館長コックスの方針も大きな見通しを欠き、利益はあまり思わしくなかった。またその頃、東インド海域におけるイギリスとオランダの対立は益々激化し、1616年以来、オランダが香料諸島(インドネシア)を往来するイギリス船を捕獲するようになると、平戸の両国商館員も事ごとに衝突し、不穏な形勢となる。イギリス東インド会社は、出費ばかり多くて一向に利益があがらない平戸商館に業を煮やし、1623年には商館長コックスに平戸商館の閉鎖を命じた。こうして日英貿易はわずか10年ほどで打ち切られた。

 当初、日本向け商品が十分に調達できないこともあって、オランダ平戸商館の役割は、日本との取引よりもむしろ戦略拠点としての性格が重視されていた。すなわち、東南アジアでのポルトガル・スペイン勢力と対決するための拠点としての役割を期待されていた。当時オランダ船は、海上で発見したポルトガル船や中国戦を襲撃し、その物資を掠奪していた。そして略奪した物資はいったん平戸商館に陸揚げし、仕分けされた後ヴァタビア(現ジャカルタ)へと送られていた。だが、こうした行為はやがて幕府の介入を招く。1624年、オランダは台湾に拠点(要塞ゼーランディア城)を確保し、対日貿易の拡大を計り出すが、そのことが逆に別の事件を引き起こす。

 1628年、台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で起こった日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件「タイオワン事件」である。その頃、長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人から生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠されたことで新たな紛争が起こったのだ。有力な朱印船貿易家で長崎代官【1619年―30年】であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛に指揮させた持ち船2隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえた。交渉のために長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人2人を殺し、ノイツに飛びかかって縛りあげて日本船に連れ帰った。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツを釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわたって幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、オランダ側もバタビアのオランダ領東インド総督スペックス(かつて平戸商館長)がノイツの責任を認めて損害を賠償する措置をとったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。

 この時のスペックスの対応は、オランダが東南アジアで見せた高圧的で不遜な態度とはまるで異なり驚かされる。それだけ日本との交易は利益が大きかったのだ。1637年におけるオランダ東インド会社全体の利益総額のうち、平戸商館での貿易による利益はなんと70%以上に達していた。これだけの利益があがっている以上、日本での貿易を有利に運ぶために、オランダ人が徳川政権の命令や要求を受け入れたのも当然だろう。武器や日本人傭兵の輸出を禁じられるとそれを遵守した。1633年以後は、平戸の商館長が江戸の将軍のもとへ、日本との取引を認められているお礼を申し述べるために参上するようにさえなる。

オランダ東インド会社の主な商館所在地 17~18世紀

「リチャード・コックス」歴史の道 平戸

1621年平戸港

台南のオランダ東インド会社の要塞ゼーランディア城  中国、日本との貿易の拠点だった

浜田弥兵衛らに捕らえられるピーテル・ノイツ 1628年

「サン・ドミンゴ教会跡と末次平蔵宅跡」長崎市勝山町 

 初代平蔵(政直)は朱印船貿易商として活躍し、東南アジアの各地へ貿易に出かけ莫大な富を得、町の支配と同時に権勢をふるった。元和2年(1616)には長崎代官に任じられ延宝4年(1676)まで4代にわたって代官をつとめた。ここはその代官屋敷だった。

0コメント

  • 1000 / 1000