「マリー・アントワネットとフランス」11  「首飾り事件」

 ある事件以後、マリー・アントワネットに対する誹謗中傷は習慣化し、諷刺文書、カリカチュアなどが多数で回るようになる。1785年8月に起こった「首飾り事件」だ。革命初期に最大指導者となるミラボーは「あの事件は、大革命の序曲だった」とまで述べている。一体どんな事件だったか?

 詐欺事件(主犯は、ラ・モット伯爵夫人という30歳の女性)であり、マリー・アントワネットは濡れ衣を着せられただけだが、それまでのアントワネットの悪評がなければ成立しない事件。マリア・テレジアやポンパドゥールなら、絶対に巻き込まれるはずのない事件だった。問題となったのは、540個のダイヤを散りばめた総額160万リーブル(約16億円)という途轍もない首飾り。もともとはルイ15世の公式寵姫デュ・バリー夫人(アントワネットに優るとも劣らない宝石狂い)が注文したもの。しかし完成を待たずにルイ15世は崩御、デュ・バリーは宮廷を追い払われたので、宝石商はアントワネットに購入を願い出る。さすがのアントワネットも、価格が高すぎるため手を出しかねていた。これを聞いたラ・モット伯爵夫人は一計を案じる。愛人で財産家のロアン枢機卿に首飾りを買わせ、それをアントワネットにプレゼントさせることを持ちかける。ロアン枢機卿は宰相になりたがっていたが、アントワネットに嫌われていた。首飾りをプレゼントすれば、王妃の覚えがめでたくなるとそそのかしたのだ。宝石商はロアンに首飾りを渡し、ラ・モット伯爵夫人は王妃に届けると称してロアンから首飾りを受け取って我が物にする。そして、そのままでは処分は難しいのでばらばらにしてロンドンでダイヤを売却した。

 ロアンは財産家だったが大変な浪費家でもあったため、4回の分割契約で首飾りを購入したものの、第1回目からして代金を用意できなかった。宝石商は、ロアンは王妃の代理として首飾りを購入すると聞いていたので、直接王妃に掛け合いに行き、これで事件が明るみに出た。

 ロアン枢機卿は逮捕され、数日後、ラ・モット夫人ら事件関係者数人が逮捕された。事件はパリ高等法院の審理に委ねられる。1786年5月31日、高等法院はラ・モット夫人を主犯と認定し、共犯者を有罪としたが、ロアンは無罪とした(ただし宝石商への支払いは命じられ、ロアンの子孫は延々100年にわたり、支払いを続けなければならなかった)。

そのため、世間の目はマリー・アントワネットに向けられることになった。ロアンを利用して首飾りを手に入れたのではないか、と疑ったのである。そう人びとに思わせたのは、巷に多く撒かれたアントワネットを誹謗中傷する、とんでもない絵やビラ。出所は、主にブルボンの分家であるオルレアン公やルイ16世の弟プロヴァンス伯、ルイ15世の娘である叔母たち。特にオルレアン公はあからさまで、この「首飾り事件」を盾に、裏ではこれが真実であるかのように世間に広めた。フランスの宮廷は、革命より前に、目に見えないところから内部崩壊が始まっていた。

 マリー・アントワネットはロアンの無罪判決に激怒し、泣きくれた。金に困り、自分の名前を語って詐欺を働いたロアンは世間に鳴り轟くような形で処罰され、自分の潔白は青天白日のものとなる、と思っていたのだから。世間の疑惑の目が自分に向けられたことには、もっと大きな怒りを感じ、途方に暮れた。マリー・アントワネットは、フランスを丸ごと非難するようになる。自分の名誉を護ってくれる「公正な判事たちを見つけることができなかった」国だから、と。急にフランス嫌いになったのである。

 この「首飾り事件」は、フランス王妃ともあろう者が詐欺事件に関与したかのような印象を世間に残したことによって、結果的に王家の威信に傷がつくことになった。後にナポレオンは次のように述べている。

「王妃は潔白だった。自分が潔白であることを喧伝しようとして彼女は高等法院が裁くことを望んだ。結果は、王妃は有罪だと人々は信じ、それが宮廷の評判を落とした」

 アントワネットは今やフランス一の嫌われ者だった。革命勃発は目前だ。

焼き鏝を押される「首飾り事件」の首謀者ラ・モット伯爵夫人

ヴィジェ・ル・ブラン「王妃マリー・アントワネット」1788年 ヴェルサイユ宮殿美術館

「首飾り事件」の「首飾り」のレプリカ(フランス ブルトイユ城)

ヴィジェ・ル・ブラン「ラ・モット伯爵夫人」

フランソワ・ルイ・ロンザン「オノレ・ミラボー」ボルドー美術館

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